「会社は辞めない方がいいですよ」忠告を無視し40歳で脱サラした男が見た“厳しい現実”
Finasee / 2023年12月29日 11時0分
Finasee(フィナシー)
まだ夕方4時だというのに、オレンジ色の夕日が事務所を照らしていた。このところ、すっかり日が落ちるのが早くなってしまった。そして、間宮孝太郎には夕日を美しいと感じる余裕はなかった。
『時間をかけて文章を練ったし、今回はきっと大丈夫。自分を信じろ』
ネジ工場に併設された事務所の中で営業資料を作りながら、間宮は自分に言い聞かせた。高校生の頃からミステリー作家になりたくて、何十回と新人賞に応募してきた。有名ミステリー作家の名前を冠した新人賞の最終候補に残ったことはあったが、いまだに受賞の栄に浴したことはなかった。ミステリー作家を夢見ながら、もう40歳になっていた。
これまで、夢のためにいろいろなものを犠牲にしてきた。仕事が終わった後に執筆の時間を確保したいので、必要以上に残業することは決してなかった。職場の飲み会にもほとんど参加したことがない。付き合いが悪く、営業成績も平均を下回る社員が上司から評価されるわけもなく、40歳になった今でも平社員だ。もしも会社の経営が悪化すれば、真っ先に整理解雇の対象になるだろう。平社員でも、独身なので生活に困らないのがせめてもの救いだった。
大学を卒業してからずっとこの中堅ネジメーカーで働いているが、小説家志望だということを会社の誰かに明かしたことは一度もなかった。どうせばかにされるだろうし、下手をすれば「そんな夢みたいなこと言ってないで、もっと仕事に打ち込め」と説教されるのがオチだ。
数ヶ月前、間宮は執筆に2年以上費やした力作で「想伝(そうでん)ミステリー新人賞」に挑んだ。ミステリーやSFに強みのある想伝出版が主催する新人賞で、受賞すれば300万円の賞金と単行本の出版が約束されている。これまでに何人もの有名ミステリー作家を輩出してきた歴史ある新人賞だ。その賞に応募するにあたり、しっかりとアイデアを練り、人物の造形にも注力し、満足いくまで何度も書き直した。そのかいもあって最終選考まで生き残れた。
そして、最終選考の結果が今日発表されることになっていた。受賞者には、想伝出版の担当者から電話がかかってくるということだった。間宮はスマホで時間を確認した。16:15だった。さすがに賞の審査は終わっているはずだ。それなのに電話がないというのは、やはり今回もダメだったということか……。
最終選考の結果は…「間宮さん、なにかありました?」
後ろから突然声をかけられ、間宮は思わずびくっと反応してしまった。後輩の鈴木だった。いわゆる「コミュ力が高い」タイプの人間で、間宮が苦手にしている上司ともうまく関係を構築し、営業成績も間宮とは比べものにならないほど良かった。
「いや、別になんでもないよ」
間宮は笑ってごまかした。周囲から評価の高い鈴木だったが、間宮はあまり好きではなかった。自分の被害妄想かもしれないが、鈴木がなんとなく自分をばかにしているように感じていた。40歳になって主任にもなれず、ずっと平社員の自分はばかにされて当然かもしれないが……。
鈴木から逃げるようにトイレへ向かった。個室に入り、どかっと腰を下ろした。会社の中でこの空間がいちばん落ち着く。用を足すわけでもなく、ぼんやりと個室の扉を眺めていた。誰がつけたのか分からないが、真っ白な扉の真ん中に小さな十字の傷がある。いったい、誰がつけた傷だろう。もしかして、なにかのメッセージなのだろうか。いつもミステリーのことばかり考えているせいか、ふとしたきっかけで想像を巡らせてしまう。
時刻が気になって、ポケットからスマホを取り出した。画面に「不在着信」の文字が表示されていた。それを見た瞬間、心臓が一気に跳ね上がったような気がした。念のため、番号を確認する。見たことがない電話番号だった。取引先でもなければ、福島県に1人で住んでいる母親でもない。
画面に表示されている不在着信の電話番号をクリックすることにためらいはなかった。着信音が何度か鳴り、誰かが電話をとった。
「はい、想伝出版です」
間宮は思わずぎゅっと拳を握りしめた。何度も諦めかけたが、自分はついにやってのけた。亡くなった父親には「お前みたいな凡人が小説家なんて」と何度も説教された。しかし、自分は決して間違ってはいなかった。目頭が熱くなっていた。薄暗い会社のトイレの中で、間宮は歓喜の涙を流した。
がらっと変わった世界「想伝ミステリー新人賞」の受賞が決まってから、間宮の人生は一変した。受賞の翌月には賞金300万円が口座に振り込まれ、受賞パーティーでは昔から憧れていた有名ミステリー作家たちから称賛と激励を受けた。出版された受賞作はなかなか売れ行きも良く、初版が出た数ヶ月後には重版が決まった。
受賞を真っ先に伝えたのは、故郷である福島県に1人で住んでいる母親だった。電話で受賞したことを報告すると、心から喜んでくれた。これまで、ずっと心配をかけてばかりだったが、40歳になって初めて親孝行ができた。そういえば、最近は年のせいか寒さが堪えると言っていた。まとまったお金も入ったし、実家の断熱リフォームをしてあげようか。
賞金が振り込まれた直後、間宮は会社を退職した。小説家として生きていけるめどがたった以上、自分を冷遇する会社で働き続ける意味はなかった。峰という想伝出版の編集者からは「小説家は不安定な仕事だし、会社は辞めない方がいいですよ」
と忠告されていたが、なにを言っているのかと思った。退職すれば自由時間が圧倒的に増え、執筆のための時間も十分に確保できる。
●忠告を無視して会社を辞めてしまった間宮は問題なく生活していけるのだろうか。 後編【「脱サラ失敗」で生活困窮した男を前向きに変えた“屈辱的な出来事”】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
大嶋 恵那/ライター
2014年立命館大学大学院経営管理研究科修了。大手人材会社などで法人営業に従事したのち、株式会社STSデジタルでライター業に従事。現在は求人系、医療系、アウトドア系、ライフスタイル系の記事を中心に執筆活動を続けている
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