新卒から18年勤めた会社を退職… 転職のきっかけとなった創業家一族の“あり得ない”一言
Finasee / 2024年1月11日 18時0分
Finasee(フィナシー)
トチの木をぜいたくに使ったテーブル、ハリウッド映画に出てきそうな本革の大きなソファ、繊細なレリーフが施されたタンス。この店に置いてある家具は、どれも安藤の手には届かないようなものばかりだった。決して自分が買えないような高級家具を人に売る仕事を始めてから、もう18年たつ。
大学を卒業してこの高級家具店に入社した時は『いずれ出世して自分もこんな家具を買えるようになろう』と考えていた。しかし、安藤の給料はいまだにその水準に達していないし、これからも達する見込みはなかった。いわゆる同族企業なので、上のポジションは創業者一族によって占められており、それ以外の社員が出世するのはかなり難しかった。もちろん、安藤も出世とは無縁で、数年前に平社員から主任になったきりだった。入社して初めて肩書がつき、月々の給料が1万円だけ上がった。1万円があれば、店の片隅で売られている犬用のマットなら、セールの時を狙えば買える。
作り物の笑顔「すいません、ちょっと気になるデスクがあるんですが」
「ありがとうございます。どの商品でしょうか?」
いかにもお金に余裕がありそうな老夫婦に声をかけられ、笑顔で返事をする。18年間の販売員人生で得たものといえば、上っ面の愛想と笑顔だけだった。作り物の笑顔を顔に貼り付け、老夫婦と一緒にデスクのコーナーへ向かう。老夫婦が気になっているのは、家具職人が北海道産のナラを使って丁寧に作り上げた立派なデスク。中古車が買えるような値段だ。
「こちら、本当に人気があるデスクなんですよ。腕の良い職人さんが丁寧に作っているので、びっくりするぐらい使いやすいんです」
営業トークを口にしながら、本心では『別に売れなくてもいいや』という気持ちだった。主任に昇進したのと引き換えに、家具を販売したら得られるインセンティブを受け取る権利がなくなったので、いくら家具を売ろうが安藤の給料は変わらないのだった。
「ありがとうございます。こちら、いただきますね」
そんな安藤の思いとは裏腹に、老夫婦はいともあっさりと購入を決めてくれた。息子が都内に家を建てたので、新築の家に合うような立派なデスクをプレゼントしたかったのだという。この値段の家具をたいして悩みもせずに買って、しかもプレゼント用とは驚いた。いったい、どれだけ金を持っているのだろう。きっと、安藤が100年働き続けても稼げないような大金が銀行なり巨大な金庫なりに眠っているのだろう。
老夫婦を見送り、会社の休憩室でコーヒーを飲んでいると、社内でいちばん嫌いな人間に声をかけられた。店長の乾だった。創業者の孫ということで、いきなり副店長のポジションで入社し、あっという間に店長になった。
創業者の孫・乾のあり得ない言葉…「安藤さん、やればできるじゃん」
年齢も社歴も安藤の方が上だが、乾はいっさい敬語を使おうとしない。それはまだ我慢できるのだが、言葉の端々から人を見下したような態度がにじみ出ており、それを隠そうともしない乾の傲慢(ごうまん)さが本当に嫌いだった。
「ありがとうございます」
「最近はぜんぜんやる気ない感じだったけど、さすがに長いこと会社にいるだけあって、トークはうまいよね」
乾には遠慮というものがない。自分の言いたいことをどんどん言う。いったい、どんな家庭環境で育ったらこんな傲慢(ごうまん)な人間が育つのだろうか。
「安藤さん、これからも頑張ってね。インセンティブないからって仕事さぼったりしたら、普通にクビにするから」
さすがに耳を疑った。人事権を持つ店長という立場の人間が「普通にクビにする」などと言って良いものなのだろうか。まさか、ここまで無神経な発言をする人間だとは思わなかった。乾は安藤がショックを受けているのに全く気付いていないようだった。軽く伸びをすると、そのまま休憩室から出ていった。
休憩室の椅子に腰かけながら、安藤は深いため息をついた。眉間には深いしわが刻まれている。時間がたつにつれ、乾の理不尽な言葉にたいする怒りがふつふつと湧き上がってきた。
『どうして俺があんなこと言われなきゃいけないんだ!』
たしかに最近はあまり熱心に働いていなかったかもしれない。しかし、売り上げ目標はちゃんとクリアしていたし、主任として新入社員の教育もしっかりと行っている。乾にあんなことを言われる筋合いはない。どうせ面白くないことでもあって、安藤に八つ当たりしたのだろう。それにしても、いくら店長とはいえ、自分よりはるかに年下の人間に八つ当たりされるなんてあまりにも惨めだ。
安藤は、自分でも気付かないうちにギュッと拳を強く握りしめていた。大学を卒業してからずっとこの会社で働いてきたが、さすがにもう限界だった。安藤は、新しい仕事を探すことを決意した。
ついに内定を獲得「思い立ったが吉日」ということで、ただちに転職活動をスタートした。年齢的にすぐ内定がもらえるとは思えなかったので、仕事は続けていた。それでも、転職活動はなかなか順調に進んだ。さすがに大企業は書類選考で落ちてしまったが、中堅規模の会社の面接には呼ばれた。今と同じ販売職の方が内定をもらいやすいのだろうが、安藤はあえて営業職を狙った。販売職よりも給料が良かったし、18年以上家具の販売を続けてきたので、さすがに飽きていた。
そして、安藤はついに内定を獲得した。社員数100人程度の小さな工作機械メーカーだった。企業規模の割に待遇は良く、年収は今に比べて100万円以上アップする計算だった。人事担当者いわく「ずっと同じ会社で働き続けた人なら、うちでも頑張ってくれそう」ということだった。18年間あの会社で働き続けたことがやっと実を結んだような気がした。
内定を獲得した翌日、安藤は店長の乾に辞表を提出した。辞表を見た瞬間の乾の驚きっぷりは最高だった。他人の感情を読み取ろうとしない乾は、安藤がこの会社に見切りをつけていることに全く気付いていなかった。
「考え直してよ! 安藤さんが辞めたら誰が新人を育てるの。そんな自分勝手なことダメだよ」
かつて自分が安藤に対して「普通にクビにするから」と言ったことをすっかり忘れているようだった。残念ながら、乾というのはそういう人間だ。
「私もこの会社に対していろいろと思うところがあるので、もう気持ちは決まっています」
「不満あるんでしょ? たとえば、どんなところが不満なんだよ?」
「『不満なところがある』というより『全てが不満』といったところですね。お金も人間関係も全てが不満だらけで、とっくに我慢の限界を超えています」
乾はポカンと口を開けていた。まさか、安藤にそんなことを言われるなんて1ミリも予想していなかったのだろう。会社を辞めたら、二度と乾に会うことはない。もうこんな無能上司に気を遣う必要など全くなかった。
あぜんとしている乾に辞表を押しつけるようにして渡し、安藤は昼食を食べるために外へ出た。雲ひとつない空に、太陽が美しく輝いていた。
●新卒から18年勤め上げた会社を退職。新天地で安藤は成功できるのか? 後編【「年収100万アップ」でも前職に戻りたい理由 “上手くいきそう”に見えた転職の失敗例】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
大嶋 恵那/ライター
2014年立命館大学大学院経営管理研究科修了。大手人材会社などで法人営業に従事したのち、株式会社STSデジタルでライター業に従事。現在は求人系、医療系、アウトドア系、ライフスタイル系の記事を中心に執筆活動を続けている
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