退職支援金で「脱サラ起業」した男を待っていた落とし穴… 会社を辞める前に見直したいリスクとは
Finasee / 2024年1月16日 18時0分
Finasee(フィナシー)
こんなに心躍るのはいつぶりだろう、そんなことを田中勇司は考えていた。
サラリーマンをしているとき、こんな気持ちになった日は一度もない。
だからきっと学生時代以来になる。
勇司は今日、念願かなってそば屋を開店する。
ずっと夢を抱いていたが、実現はきっと遠い未来なんだろうなと思っていた。
事態が変わったのは会社が早期退職者支援制度を発表してから。
退職金を割り増ししてもらえると聞き、勇司はすぐに妻の皐月に相談した。
勇司が趣味でそば打ちをしていることを知っていた皐月は、勇司の熱意を感じて、そば屋の開業を認めてくれた。
それから皐月と2人で開店に向けての準備を始め、そしてようやく開店日にこぎ着けることができたのだ。
脱サラ人生のスタート「開店おめでとう」
店を開けて最初にやってきてくれたのは勇司が店を出すこの商店街で連合会の会長をしている長田さんだ。
長田さんは今回の開店に向けていろいろと手伝いをしてくれた恩人の1人。
長田さんのおかげで周りのお店の店長さんたちとの良好な関係が築けたのだから、頭が上がらない。
そして勇司は店をオープンさせたときに最初に食べてもらいたいと申し出て、長田さんを招待していたのだ。
勇司の自慢の手打ちそばを食べて、長田さんの顔がほころぶ。
「うん、うまいよ。これなら、人気店になるな」
長田さんの評価を得られて勇司はほっと胸をなで下ろす。
そばへのこだわりには自信を持っていた。そば粉とつなぎの割合を何度も吟味して、勇司が行き着いたのは二八そばだった。
つなぎを使わない十割そばがもてはやされる流れではあるが、それを作るには熟練の腕が必要だ。
勇司は何度も試作をしたが、ぼそぼそした食感のそばしか打てなかった。
しかし二八そばであれば、風味を損なわず歯切れの良いそばを打つことができる。
そこで勇司はこの二八そばで勝負をしようと決めていた。
「ごちそうさま、今度は普通にお客さんとして来させてもらうよ」
そう言って完食した長田さんは店を出て行った。
開店して1カ月、店は思ったよりも好調な滑り出しだった。
要因は立地環境。
今時の商店街なんてどこもシャッター街と化しているのが常だ。
しかしこの商店街は長田さんのおかげで、常に客でにぎわっている。
そんな人気の商店街でありながら、そば屋はうちの店を入れて二軒しかない。
しかもその一軒はいわゆる高級なそば屋で、リーズナブルな価格で提供するうちとは客層がかぶらない。
つまり、お客をある程度、独占できる状況にあったのだ。
昼前になると、近くの会社で働くサラリーマンが来てくれたり、夜になると、年配の夫婦などが夕食にうちの店を選んでくれるようになった。
開業前に勇司が狙っていた通りの客層がきちんと来てくれている。決して売り上げが良いわけではないが、狙い通りに進んでいるという感覚がうれしかった。
このまま続けていけば、確実に黒字化することができる、勇司はそう確信していた。
「思った以上に順調ね」
妻も同じ気持ちのようで、うれしそうに勇司に話しかけてきた。
「ああ、このままいけば、従業員も雇えるようになるよ。そうなったら、皐月は家でゆっくりしてくれていいからな」
「ふふ、そうなるまでは頑張らないと」
皐月はそう言ったが、勇司はそのときは遠くないと考えていた。
大型商業施設が駅前に?それから1年がたっても、店は相変わらず順調だった。
そんなあるとき、長田さんが店にやってくる。その表情がいつもよりも暗いことが気になった。
「長田さん、どうかしたんですか? 」
「いや、実はね、駅前に商業施設が建設されるって言う話が出ているみたいなんだ」
その話を最初聞いても勇司はピンとこなかった。
完成したら、妻を連れて行こうと思ってたくらいだ。
「それがどうかしたんですか? 」
「もしそんなものができてしまったら、商店街に来ているお客さんは皆そっちに行ってしまうだろ? 」
長田さんに問いかけられ、勇司はことの重大さに気付く。
勇司がこうしてそば屋として順調なのは、競合がいないからだ。
しかし大型商業施設ともなれば、有名チェーンのそば屋が参入してもおかしくない。
いやというよりも、商店街に人が寄りつかなくなれば、そもそもうちに来てくれる人はいないはず。
商店街を利用した帰りにうちのそば屋で食事をしてくれるお客さんがほとんどなのだから。
「そ、それは阻止しましょう。まだ決定ではないんですよね? 」
「もちろんだよ。うちの連合会全員で力を合わせて反対運動をするつもりだ」
反対運動の結果は…それから勇司は長田さんと共に反対運動に参加をすることになった。
商業施設建設に反対するのは勇司たちだけではなく、周辺地域の商業団体が加わり、大きな組織となる。
これだけいれば、早々に施設の建設がされることはないだろうと勇司は心強く思った。
「現市長に知り合いの人もいるみたいで、その人の話では市長も建設には否定的だったらしいよ」
長田さんはそんな風に勇司に話をしてくれた。
だから勇司は心に余裕を持って状況を静観していたのだが、その考えが甘かったと後に痛感する。
あるとき、商業施設建設に関する市民フォーラムが開かれ、勇司たちは反対派としてそれに参加した。
てっきり勇司は反対派が多数になるものだと思っていた。商業施設などなくても不便はなかったし、何より商店街は町の皆から愛されている自信があった。
しかし参加者の過半数を超える人たちが賛成派だったのだ。
「どういうことですか、これ? 」
勇司は長田さんに尋ねる。
「どうやら、地権を持っているやつらが金を使って賛成派を集めているらしい」
そこで勇司はこのような施設が建設されるときには大きな金が動くということを身をもって知った。
それらの利権を得るために、動く人間というのは数多くいるらしい。
そしてシンポジウムは実際に賛成派の攻勢に、コチラが押し込まれる形で進んでいった。
その後、この件を契機に流れが変わり、反対派の意見は隅に追いやられる。
そして否定的だった市長も市民の声に耳を傾けた結果、大型商業施設の建設が決定。
反対派の意見は何一つ聞かれることはなく、商業施設の建設がスタートしてしまった。
「これから、どうなるのかしら…」
皐月は不安そうに話すが、勇司にはそばを打つしかやれることはなかった。
●大型商業施設が建設されてしまったら勇司たちの商店街はどうなってしまうのだろうか。 後編【ライバル店に敗北の末、脱サラ失敗… 抱えた借金と妻が気づかせてくれた“教訓”】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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