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指示されるがまま「連帯保証人」の欄にサインを…娘の人生を狂わせた「毒母の支配」

Finasee / 2024年3月11日 11時0分

指示されるがまま「連帯保証人」の欄にサインを…娘の人生を狂わせた「毒母の支配」

Finasee(フィナシー)

コントロールする母親

中国地方在住の山口紗理さん(50代・既婚)の両親は、父親が29歳、母親が24歳の時に工場の娘と従業員として出会い駆け落ち。山口さんの兄を妊娠したことで母方の祖父母と和解し、結婚した。

結婚後、父親は建設会社と化粧品の代理店を母親とともに始め、2年後に山口さんが誕生。

母親は兄のことは可愛がったが、妹は貶めた。兄は欲しい物を買ってもらえたり、やりたい習い事をさせてもらえたりしたが、山口さんには選択権はなく、友だちや進学先、アルバイト先や就職先も母親が決めた。

父親の悪口ばかり言っていた母親は、山口さんが高校2年生の頃、父親にがんが見つかった途端、献身的な妻へ変貌を遂げ、親戚や近所の人から、「献身的な妻」と称賛され始めると、自分でもあちこちで看病の大変さを話して回った。

やがて父親が52歳で亡くなってしまうと、母親の関心は20歳になった山口さんに集中。

短大を卒業した山口さんを自分の口利きで金融系の会社に入社させ、門限を20時と定め、1分でも遅れれば内鍵をかけた。

結婚と離婚

山口さんは23歳で、高校2年の頃から交際していた1つ年上の先輩と結婚。

同じ年に第一子を妊娠すると、ひどいつわりから脱水症状を起こし、3カ月入院。退院するも、寝たきりの生活が続いた。

ところが夫は会社の後輩とパチンコやビリヤードなどにのめり込む。

第一子出産に夫は立ち会ったが、家事育児を全く手伝わない。5年後に長女を出産する時も立ち会ったが、やはり子どもと積極的に関わろうとはしなかった。

結婚6年後、山口さんの父親の形見分けで山口さん名義になっている実家の隣の土地に、山口さんの母親のすすめで家を建てた。家が完成すると、山口さんの母親が毎日のように入り浸るようになったが、夫はますます家に帰ってこなくなった。

結婚して10年目。急死した義父の通夜・葬儀に山口さんが夫と子どもたち参列すると、夫のマザコンぶりが露見。長男が7歳、長女が2歳の頃、大きな地震があった時も、夫は子どもより自分の母親の心配ばかり。

子どもの登校時間に平然と朝帰りをするようになると、山口さんは離婚を切り出す。すると夫は、「改心する。ギャンブルもやめる。子どもとも遊ぶ。だから離婚しないでほしい。仮面夫婦でもいい。おふくろが悲しむ姿を見たくない!」と食い下がる。

それから8カ月ほどたった頃、「慰謝料はいらないからとにかく離婚して!」と山口さんが言うと、夫は手のひらを返したように離婚を受け入れ、「俺には子育ては無理。お前が育てて」と言い放った。

離婚後の生活

離婚が決まると、約4年前に建てたばかりの家は売却することになった。

母親との同居を避けたかった山口さんは、古い小さなアパートを借りて、親子3人で暮らし始めた。ところが、持ち家を売却したところ、母子家庭が受けられるはずの児童扶養手当が止められてしまう。

山口さんは、結婚を機に金融系の会社を退職し、父親が亡くなった後、母親が経営する会社を継ぐために戻ってきていた兄に誘われ、母親の会社を手伝っていた。

実家に戻れば仕事とプライベート、24時間365日母と一緒で、一生母の奴隷として生きることが確定し、精神が崩壊することは明らか。どうしても母親との同居を避けたかった山口さんは、母親の会社の仕事の他に、母親には内緒で日払いの夜のアルバイトを始めた。

毒親がつくり上げた我慢体質

当時61歳の母親は、離婚後に実家に身を寄せない山口さんに憤っていた。会社を手伝っているため、母親とは毎日顔を合わせる。

「あんたに実家はいらないんだね。私のことが必要ないなら親子の縁を切ろうか」

と口癖のように縁切り宣言をしてくる。

一方、元夫は離婚後、会社を辞め、一度も養育費を払うことはなく行方をくらました。

「元夫は、夜遊びに明け暮れ、決して裕福ではないのに車検が来る度に車を買い替えていました。私は付き合い始めた高校2年から、ただひたすら我慢していました。毒親育ちの特徴の1つである異常なまでの我慢強さが、全て悪い方へ働いたと思っています。『私が我慢すれば誰も悲しまず、平穏無事に終わる』と思っていましたが、我慢は結局、問題から逃げているだけでした。私は元夫や母親の言葉にこれ以上傷つきたくないから、反論せずに石のようになっていたのです」

人生を狂わせる連帯保証人

山口さんの離婚の6年ほど前。兄は20代後半で結婚し、夫婦で母親の会社を手伝っていたところ、兄嫁が妊娠。里帰り出産をすることに。残った兄が母親に兄嫁いびりについて抗議すると、激しい口論に発展し、兄は実家を出て、帰らなくなっていた。

山口さんは離婚の翌年、社長である母親から相談があると仕事中に呼び出された。

「兄ちゃんが帰ってこないからあんたが後継ぎになる。会社の運転資金を借りるから、連帯保証人のところに名前を書いて」

山口さんは銀行マンと母親の前で名前を書いた。

「毒親社長に育てられた私には、社長にNOという選択肢は教えられていません。いくら借りるのか、毎月いくら返済するのか、何年で返すのかなどという詳しい説明を求める勇気はもぎ取られているため、躊躇(ちゅうちょ)しながらも名前を書きました」

この行動が未来の自分を追い詰めることになるとは、この時は想像もしていなかった。

●その後山口さんが味わうことになった連帯保証人としての苦労とは? 後編【娘を破談にさせたい毒母「あんたは私を不幸にした」幸せを諦めかけた女性を救った再婚相手の機転】で詳説します。

旦木 瑞穂/ジャーナリスト・グラフィックデザイナー

愛知県出身。アートディレクターなどを経て2015年に独立。グラフィックデザイン、イラスト制作のほか、終活・介護など、家庭問題に関する記事執筆を行う。主な執筆媒体は、プレジデントオンライン『誰も知らない、シングル介護・ダブルケアの世界』『家庭のタブー』、現代ビジネスオンライン『子どもは親の所有物じゃない』、東洋経済オンライン『子育てと介護 ダブルケアの現実』、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、日経ARIA「今から始める『親』のこと」など。著書に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社)がある。

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