「保育士の分際で…」毒母に虐待をやめさせた52歳新米女性保育士の「子育て経験値」
Finasee / 2024年4月15日 17時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
弥生(52歳)は2人の娘の子育てを終えて念願の保育士資格を取得した。子育ての経験を生かして保育園で充実した毎日を送っていたが、ひとつ心配なことがあった。何かと同じ園のおともだちに暴力をふるってしまう亮と、その亮を頭ごなしに泣くまでしかってしまう母親の涼香のことだ。さらにお受験を控えていると聞いて、亮のことを注視しておこうと決めた弥生だった。
●前編:「口を出さないでください!」52歳の新米女性保育士に立ちはだかる“モンスター親子”の「ありえない子育て」
これはわが家の問題ですので
ここ数日、亮のことを見ていて分かったことがある。
まず亮は決して器用なわけではないということ。特に自分の気持ちを伝えるのがうまくいかず、どうしようもなくなるとかんしゃくを起こすことがあった。
しかし感情表現は不器用だが、秀でいていることもある。
「亮くん、何をお絵かきしているの?」
「ママ」
画用紙に向かって一心不乱にクレヨンを握っていた亮が顔を上げる。画用紙にはニッコリとした人物の絵が描かれていた。
「すごいね、上手だね」
弥生が褒めると、亮はうれしそうに頰を緩めた。
感情表現はあまり上手ではないが、絵を褒めると笑ってくれた。外で活発に遊ぶというよりも、自分の世界に没頭するほうが好きなようだった。
「どうですか? あれから亮は何か迷惑をかけていませんか?」
涼香はあの日以来、よくこの質問をするようになっていた。
「いいえ、とても楽しそうに遊んでいますよ。武くんとも一緒に遊んでいましたし」
弥生がそう言うと、ホッとしたような顔になる。
「実は亮くんは絵を描くことが好きみたいなんですよ」
「……試験でもお絵かきがあったわね」
「いや、あの、もっと自由に描かせてあげたほうが……」
弥生の言葉に涼香は鋭い反応を見せる。
「これはわが家の問題ですので」
そう言うとこれ以上は何も言わせてくれなかった。弥生は涼香との壁が想像以上に厚いことを思い知った。
「保育士の分際で」基本的にはおとなしくて優しい性格の亮だが、やはり時折けんかになってしまう。
子供のけんかなので、どちらが悪いということではないのだが、亮は一度怒り出すと止まらないのだ。
その結果、相手の子をたたいたりして泣かせてしまう。そのたびに弥生や他の保育士たちが対応することで事なきを得ているのだが、いつか大きなけがにつながってしまう危険がある。
けんかをしてしまった日は、弥生も頭を抱えた。涼香に何と報告すればいいだろうか。考えるたび、泣いたまま引っ張って連れていかれる亮の後ろ姿が思い浮かんだ。
弥生が亮の手を取って涼香の元へ連れて行こうとすると、初めて亮が拒否の姿勢を見せる。
「どうしたの? ママが来てるよ」
「いやだ」
亮がそう言って首を横に振る。きっとけんかのことで怒られると分かっているのだろう。弥生は亮にほほ笑みかける。
「大丈夫。先生がきちんとお話をするから。怒らないようにママに言うからね」
弥生の言葉を聞き、亮はゆっくりと歩き出してくれた。
そして待ち構える涼香に弥生はけんかのことを報告する。涼香は大きくため息をついた。
「……そうですか。またですか」
怒ってないがあきれたような言い方だった。
「ええ。もちろん、相手の子にけがはなかったのですが」
「分かりました。ほら、亮、行くよ」
涼香は手を伸ばす。しかし亮はその手を取ろうとしない。
「どうしたの? 早くしないと塾に間に合わないから」
涼香はイライラした口調で亮をせかす。しかし亮はそのまま動かない。しびれを切らした涼香は亮の手を無理やりつかむ。
その瞬間に、亮は大声で泣き出した。
亮の反応に傷ついたような顔をした涼香。しかし次の瞬間には怒りに変わる。
「何よ⁉ どうして私の言うことを聞いてくれないの⁉ あんたも私のことをばかにしてるんでしょ⁉」
涼香の怒声に比例して、亮の泣き声はさらに大きくなる。涼香はしびれを切らし、亮の腕を無理やりに引っ張る。
見ていられなくなった弥生は思わず2人の間に割って入った。
「お母さん、お願いです。落ち着いて。亮くんと少しだけでいいんで、話をしてあげてもらえませんか!」
「何なの、あんた保育士の分際で」
「亮くんは話せば分かってくれる賢い子です。亮くんは単にワガママを言ってるわけじゃないんです」
涼香は亮が弥生にしがみついている様子を見下ろしていた。
「差し出がましいことは分かっていますが、亮くんの気持ちをもう少しだけ考えてもらえませんか。ご家庭の事情はあると思います。だけど亮くんの気持ちも大事にしてあげてほしいんです」
涼香は弥生から視線をそらす。そらした先で怯えている亮を見て、悔しそうな悲しそうな顔にゆがむ。
「亮、帰るよ」
涼香は亮の手を引いて園から去っていく。弥生は祈るような気持ちで2人の背中を見送った。
卒園式春の嵐は過ぎ去って、穏やかな陽光が気持ちのいい日に卒園式を迎えた。
亮はあの日以来、かんしゃくを起こさなくなった。受験には落ちたようで、地域の公立小学校に入学することになったと別のママさんたちがうわさしているのを小耳に挟んだが、真偽は大きな問題ではなかった。亮がよく笑うようになったこと。送り迎えに来る涼香と楽しげに話しながら手をつないで歩いていること。重要なのはそれだけだった。
「本当にご迷惑をおかけしました。お恥ずかしいことに、亮のことなんて全然見えてなくて、夫や夫の両親の目ばかり気にして……親失格ですね」
亮とともにあいさつにきた涼香はゆっくりと頭を下げる。
「そんなことないですよ。おこがましいようですが、最近の亮くんはよくお母さんのお話をしてくれてたんですよ」
涼香は手をつないだ亮に視線を落とす。目元は春の柔らかな日差しを受けてほのかに光る。
「全部先生のおかげです」
「いえいえ、私は何も」
受験失敗のうわさを聞いたときに唯一気がかりだったのは亮よりも涼香のほうだったが、どこか気が晴れたような顔をしているので、安心する。あのとき、誰よりも追い詰められていたのは医者の家に嫁いだ涼香だったのかもしれない。
それでも、涼香はしっかりと亮に寄り添うことを決めてくれた。この親子はもう心配ない。弥生にはそう感じられた。
「これ、あげる」
「え? 私に?」
亮が丸めた画用紙を手渡してくれる。開くとそこにはまん丸の笑顔が描かれてあった。
「これ、弥生先生」
「えー、うれしい! ありがとうね!」
弥生が感謝を伝えると、亮も笑ってくれた。
「ありがとうございました!」
はきはきとした感謝の言葉に弥生は思わず涙をこぼした。
そうして涼香と亮は手をつないで笑顔で帰って行く。
その背中を見ながら、弥生はこの仕事に就けたことを本当に幸せだと実感した。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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