息子に“自分と同じ思い”をさせないために…夫の裏切りに耐える女性の「決して揺るがない目的」
Finasee / 2024年4月26日 11時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
病院の整形外科で看護師をしていた茉奈は、当時事務長だった元夫と恋愛結婚をして一人息子の隼人を授かった。
しかし元夫は財産目当てに近づいてくる人間とともに事業の立ち上げと清算を繰り返すようになり、次第にアルコールに依存した。2人は当時既に小学生となっていた息子への影響も考えて離婚を決めた。
その後、茉奈はイタリアンバルを経営する現在の夫と再婚した。マンションの自治体が開催する桜まつりに5年連続で出店している屋台は、今年も客が途絶えず大盛況だ。茉奈がつかの間の休憩をとって屋台へ戻ると、夫の元へある人物が訪ねてきていた。
●前編:【平静を装い、知らないふりでやり過ごす…夫の秘密を知るバツイチ女性の悲痛】
夫に頼らざるを得ない一人息子の学費桜まつり翌日の月曜日は、あいにくの悪天となった。どんより曇った空からは大粒の雨が降り注ぎ、花冷えの中で満開の桜も心なしか色褪せて見える。
こういう日は店を開けても客足が鈍い。19時を過ぎても空席が目立ち、20時には夫に後を任せて隼人の夕食を手に早めに店を出た。
模擬試験が近い隼人は自室でタブレットを手に物理の学習アプリを見ていた。動画やアプリなどIT技術を駆使した今の受験勉強は、30年前の私の時代とは全然勝手が違う。
今日の夕食のメインは、隼人の好物のハンバーグだ。トマトベースのソースにチーズがたっぷりかかったハンバーグを頬張りながら、隼人は「お母さん、疲れてるんじゃない?」と私の顔を覗き込んできた。
この子は幼い頃から人の気持ちに敏感だ。「桜まつりでちょっと頑張り過ぎちゃったかも。でも、大丈夫よ」。ソムリエールの顔を強引に打ち消し、心配そうな息子に笑顔を向けた。
隼人は国立大学の医学部を目指している。資料を取り寄せたところ、4年間にかかる学費は350万~400万円に上る。自宅から通うのが難しければ、下宿代も考慮しなければならない。6年分だと学費と合わせて1000万円近い。私一人でそれだけの金額を用意するのはどう考えても無理がある。ソムリエールとのことは腹立たしいが、隼人のためには夫に頼るしかない。
生まれつき裕福で幸運な夫ヨーロッパでは生まれつき裕福で幸運な人を指して「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」というらしい。夫はまさにそれだと思う。父親は国家公務員の上級職で、母親は銀行員。幼い頃からサッカーに親しみ、Jリーグのユースで活躍したがトップチームへの昇格にはあと一歩及ばず、イタリアにサッカー留学した。そこで「サッカーよりずっと面白い」料理と運命的な出合いを果たし、食の世界に飛び込んだのだという。
トスカーナのレストランで修業をした後、帰国して20代でイタリアンレストランを開業。グルメ雑誌などにもしばしば取り上げられ経営は順調だったが、一人息子だったこともあり、両親の近くの方が安心と5年前に店じまいしてマンションの近くにイタリアンバルをオープンした。離婚した私がハローワークで求人の相談に来た夫と再会したのはちょうどその頃だ。夫は私が看護師時代、勤務先の病院にけがで入院していたことがあった。
夫の両親は息子に面倒を見てもらう気などさらさらなかったらしく、私たちの結婚を機にこのタワーマンションの一室を夫に譲り渡し、熱海の高級老人ホームに引っ越した。今は、気候のいい温泉地でのリタイアライフを満喫しているように見える。コロナ禍の3年間こそおとなしくしていたが、昨年から今年にかけては3回も海外旅行に出かけている。
夫とは対照的な茉奈のこれまで銀のスプーンの夫に比べると、私の人生はみじめなものだ。
物心ついた頃には父親はおらず、実の母は私を育てるのに必死だった。腎臓に持病を抱えながら、昼間は工場、夜は飲食店で寸暇を惜しんで働いた。そして、私が中学生の頃にはついに人工透析が欠かせなくなった。皮肉なもので、母親が働けなくなり生活保護を申請すると、生活費に加えて母親の医療費も行政が支援してくれた。
母親は私が高校生の時に亡くなり、私は子供のいない叔父夫婦に引き取られた。病弱な母親を見て育った私は、内科医になって腎臓病に苦しむ人を救いたいと考えていた。しかし、叔父夫婦も決して経済的に余裕があったわけではなく、むしろ私を迎えたことで日々の生活はかつかつだった。成績は学年でもトップクラスをキープしていたが、とても「医学部に進学したい」とは言い出せなかった。
やむなく国立大学の看護学部を選び、学費は日本育英会(現日本学生支援機構)の貸与型奨学金、下宿代や生活費はアルバイトで賄った。従って、私には大学時代の楽しい思い出などほとんどない。それは、看護師として病院に勤務してからも変わらなかった。
叔父夫婦に仕送りして奨学金を返すと、日々の生活は本当にギリギリだった。洋服にお金をかける余裕はなくほとんど着た切りスズメだったので、制服のあるナースで良かったと胸をなで下ろしたものだ。元夫と結婚した時点でも100万円以上の奨学金の返済が残っていたが、元義父の援助で一括返済することができた。その時、人生で初めて「何かに追われる生活」から解放されたような気がした。
一人息子のために「何も知らないふり」をする茉奈だからこそ、隼人には絶対に自分と同じような思いはさせたくない。隼人が医学部に行きたいのなら、学費は何としても用立ててやりたい。医学部は実習が忙しいと聞くし、私のようにアルバイトに追われる学生生活は送ってほしくない。
夫の浮気相手のソムリエールには、大手の飲料会社で重役を務めるパトロン兼愛人がいると聞いたことがある。夫とは所詮、一時の火遊びに過ぎないのだろう。それならこちらも腹を括って夫が戻ってくるのを待つしかない。
隼人に食後のココアを入れている時、携帯が震えた。夫からのメールだ。
「長っ尻のお客さんがいて店が閉められない。今夜は遅くなるかも」
大方、ソムリエールが来ているのだろう。月曜日、彼女の店はお休みだ。
「無理しないでね。帰宅する時に連絡して」
何も知らないふりをして、そそくさとメールを返した。
※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。
森田 聡子/金融ライター/編集者
日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。
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