「ビジネスソフトすら使った事がない…」元プロ野球選手の引退後に立ちはだかった“30代で未経験“の壁
Finasee / 2024年7月10日 17時0分
Finasee(フィナシー)
球場のベンチに座る涼は胸に忍ばせたお守りをユニホームの上から握りしめ、精神統一をしていた。プロのユニホームを着るのはこれで最後かもしれない。そう思うと必要以上に自分を追い込んでしまう。だが、力んでいいことなど1つもない。そう自分に言い聞かせた。
今日は12球団合同トライアウト。所属していたプロ野球チームから戦力外通告を受けた涼にとって、これが最後のチャンスだった。年齢も31歳で、よほどの結果を残さない限りは厳しい。その現実を踏まえつつ、涼は気持ちを落ち着かせていた。
入念に素振りをする。腰も問題ない。むしろここ数年で1番の調子だった。
涼は大卒5年目、つまり選手として最もあぶらの乗ったこれからという時期に、いわゆる「野球腰」――腰椎分離症を発症した。ようやく1軍ベンチに固定で入れるようになり、レギュラーを狙うチャンスが巡ってきたタイミングだった。しかしけがにより1シーズン離脱しているうちに同じポジションの後輩が頭角を現し、涼の出番は失われた。チームが新たに獲得した選手の人的補償で、移籍することになっても、状況は好転しなかった。
涼は元々、ダイナミックなスイングが魅力の長距離ヒッターとして期待されていた。しかしけが以来、思ったようなスイングができなくなっていた。ずっとけがのせいにしてきたが、でも今日だけはけがを言い訳にしたくない。妻の楓と娘の新奈がくれたお守りをもう一度握り締め、打席へと向かう。
戦力外通告を受けたときは絶望と同時に納得感もあった。結果を残せない人間に居場所はない。それがプロの世界だと分かっていた。しかしもう終わりでもいいかもしれない……という気持ちを、妻と娘が支えてくれた。2人のためにも、今日だけは結果が欲しい。
審判に一礼し、足元の土を馴染(なじ)ませる。バックスクリーンを確認し、バットの先でベースの隅をたたくルーティンをこなす。涼は構える。対戦投手が伸びやかなフォームから1球目を投じる。内角高めの打ちごろ――涼の最も得意とするコースだ。
涼は腰を回転させ、バットを鋭く振った。確かに捉える。しかしスイングは球圧に押し負け、打球はバックネットへと向かう。
(振り遅れた……)
涼は対戦投手を見据える。日本刀のように研ぎ澄まされた、いい表情をしている。人生をかけて今日に臨んでいるのは涼だけではない。今、振り遅れたのは気持ちで負けている証拠だった。
涼は気を吐いた。再びバットを構えた。
ノーヒット、三振3打数ノーヒット、2三振。それが涼の野球人生、最後の成績だった。
もちろんどこの球団からも声がかかることはなく、涼は引退するほかに選択肢がなかった。
「それじゃあ、この段ボール、玄関に持ってくね」
「ありがと。重いから気を付けて」
「これくらいは大丈夫」
涼は笑顔で楓に応えた。引退した涼は、住んでいたマンションから2人の地元へと引っ越すことにした。新しい家のある地域は風光明媚(めいび)な場所で、来年小学生になる新奈が育つ環境としても申し分ない。何より楓の実家が近くにあるというのが大きかった。
「ねえ、涼?」
楓は業者に処分用で出す段ボールの前に立っている。
「これ、本当に捨てちゃっていいの?」
そこには今まで苦楽を共にしてきた野球道具たちが入っている。楓の心配そうな表情を払拭するように涼は笑う。
「いいんだ。昔のことはスパッと忘れて、新しいスタートを切るんだからさ」
楓は曖昧な表情でうなずいていた。
俺ができることをやる新天地での生活が始まった。
引っ越しのお祝いを兼ねて出前のすしをとり、まだ段ボールに囲まれたまま、家族3人で食事をした。新居を新奈は気に入ってくれたようで、涼としては一安心だった。新奈を寝かしつけてから、リビングで涼と楓は晩酌をする。晩酌といっても、飲むのは楓だけで、現役時代から体調管理のためにアルコールを控えていた涼は新奈が残したオレンジジュースを飲んでいた。
「あとでスーツを出しておかないとな……」
涼は段ボールを眺めてつぶやいた。周りの友人たちと違い、涼は就職活動をしたことがない。
「セコンドキャリア支援みたいな会社は使わないの?」
楓がビールを口に含む。
「ああ、まあ、普通にハローワークに行っていろいろと相談してみるよ」
「ふーん、まあ、涼がそれでいいなら、何も言わないけど」
正直、これ以上野球選手と関わるのが嫌だった。華々しく成功する元ライバルたちを、落後者として見続けるなんて、きっと耐えられそうにない。
「あんまり無理しなくていいからね。貯金はまだあるし、新奈ももうすぐ小学校で手が空くから、私がパートしてもいいんだから」
「……取りあえず、俺ができることをやるよ。だから見ててくれ」
「うん、とにかくこれまでずっと張りつめてやってきたんだから、気楽にやってね」
気楽になんてできなかった。していいわけがなかった。楓たちには今まで散々、迷惑をかけてきた。これからは自分が好きだった野球のためじゃなく、妻と娘のために生きるのだ。
そう決意を固めて飲み干したオレンジジュースは、甘ったるくて喉に引っ掛かった。
“未経験”の壁ハローワークの相談員は難しい顔をしながらも、いくつかの会社を紹介してくれた。最初に面接を受けたのは地元企業だった。主に梱包(こんぽう)用の資材を製造する会社で、営業部門の募集があるとのことだった。
四十がらみの面接官は、笑顔で涼を会議室に招き入れた。しかし貼り付けたような笑顔に、涼の緊張感は増していった。
「へぇ、元プロ野球選手なんですよね? スゴいですね、なんていうチームだったんですか?」
面接官は涼が野球選手だったという部分に食いついた。涼は自分のアピールも兼ねて、現役時代の話をした。
「そうですか、そうですか。どうして引退を? スポーツの世界は分かりませんが、31歳くらいならまだまだいけるでしょ。ほら、イチローとか」
涼は苦笑いをする。もちろんレジェンド級の名選手と比べられたからではない。引退の理由を話すには、けがのことを話さなければいけないからだ。ハローワークの相談員は、仕事に支障がないならけがのことを話す必要はないとアドバイスをしてくれた。しかし話すのが自然な状況でそれをうまくかわせるほど、涼は器用ではなかった。
「実は、5年目に腰椎分離症というけがをしてしまいまして……」
「そうですか。体力的にもかなりハードで、資材の運搬や仕分けをしてもらうこともあるんですが、そのあたりも大丈夫そうですか?」
「もちろんです! 先日、引っ越しの際にはかなり重い荷物なんかもしっかり運んでます」
実際、かなり強い負荷をかけなければ腰は問題ない。加えて皮肉なことに野球から離れて以降、腰の調子は現役時代よりもはるかに良くなっていた。
しかし面接官は2度うなずいて、それ以上の反応は示さず、再び履歴書に視線を落とした。
「運転免許は持っていると。……WordやExcelを使ったことはありますか?」
「高校の時に授業で少し習ったくらいで、あまり……でも、一生懸命覚えます!」
「ははは、大丈夫ですよ。簡単な資料作りや数値入力程度なので」
面接官は笑っていたが、その声はどこか冷ややかだった。
「とはいえ、31歳でオフィスワークが未経験だと難しいかもしれないですねぇ。ほら、うちなんて何ぶん小さい会社でしょ? 未経験者を育てるっていうのもねぇ……」
それがお断りを意味する発言であることすら、涼が気づくにはしばしの時間が必要だった。次の会社も同じだった。最初、元プロ野球選手という肩書に注目してくれるも、業務に必要なスキルや経験の話になると、眉をひそめ、声音が冷ややかになった。
簡単なビジネスソフトですら使ったことがなく、頼みの綱である身体にも爆弾を抱えている。野球しかしてこなかった人間が、いいや、その野球ですら使い物にならなくなった人間が、社会にとってどれだけ不必要な存在であるかを、涼は思い知らされていた。
●暗雲の立ち込める涼の就職活動、現状を突破する方法はあるのだろうか……? 後編【「正社員になれずバイトを続け…」元プロ野球選手の悲惨な生活を救った恩師の“思ってもみなかった”言葉】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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