「飯まだ?」まるで365日無休の家来…モラハラ夫に支配される妻の背中を押した「娘からの信じられない一言」
Finasee / 2024年7月12日 17時0分
Finasee(フィナシー)
時計の針は19時30分を回ろうとしている。秒針が時を刻む何倍もの速さで、薫の心臓は脈打つ。急がなければと焦れば、当然のように手元が狂う。
「いたっ」
薫の人さし指から真っ赤な血があふれだす。指先を伝った赤い滴は滴り落ちて、キャベツの薄緑を赤く濁らせる。薫は急いで手を洗い、玄関横の収納棚にある救急箱を取りにいく。ばんそうこうを手に取った瞬間、玄関の鍵が開く音がして、薫の胸を握りつぶす。
「お帰りなさい」
表情をつくって玄関を見ると、スーツ姿の夫・新吾が立っている。
「何やってんの?」
「ちょっと、包丁で指切っちゃって」
「じゃあ飯はまだってこと?」
「ごめんなさい。急ぐからちょっと待ってて」
薫が言うと、新吾は露骨に舌打ちをする。
「買い物に行ったら、渋滞に巻き込まれちゃったんだよね……」
「腹減ったなぁ」
新吾は鋭利なつぶやきを吐き出して、革靴を無造作に脱ぎ捨て、二階の寝室に向かっていった。
薫は新吾の姿が見えなくなって、胸の前で重ねた両手を握り締める。22歳のときに新吾と結婚し、今年で13年目になる。2人の娘を出産し、最近は小じわが増えたように感じる。子育てと家事に忙殺されるなか、美容院やメイクやネイルなど、若いころに精を出していた美容にかける熱意は冷め、アラフォーと呼ばれる年になった今、年相応に老け込んだように思う。
もちろん変わったのは薫だけではない。入社1年目から父親になる重圧のなか懸命に働いてきた新吾もまた、昔に比べて随分と額は広くなり、40歳前だというのに白髪が目立つ。
だからきっと、結婚したときのような幸せは続かない。夫婦というのはきっと、結婚して数年の幸せだったときの貯金を食いつぶしながら、いろんなことを諦めながら続けていくものなのだ。
「……大丈夫?」
ひっくり返った新吾の革靴をそろえていると、二階に続く階段から長女の美緒が薫をのぞき込んでいた。心配そうな娘の表情に、薫は笑顔をつくって返事をする。
「うん、大丈夫だよ。もうすぐごはんできるから。それまでに宿題を終わらせておいて。実里にもそう言って」
「うん、分かった」
自分の部屋に引き上げていった美緒を見送り、薫は気持ちを奮い立たせる。
ダメダメ。娘に心配させてどうする。
美緒は来年、中学生になる。もういろいろなことに気付く年頃なのだから、気をつけないといけない。
薫はエプロン越しの太ももをたたいて、キッチンへと戻った。
妻ではなく365日無休の奴隷シャワーを浴びて寝室に向かうと、ベッドに寝転んだ新吾はスマホでゲームをしていた。
「あのね、週末ちょっと実家に帰ろうと思ってるの」
「は? なんで?」
新吾はスマホから顔すら上げず、刃物のような言葉だけを投げつける。
「……お父さんの体調があんまり良くないって連絡があったのよ。それで見舞いがてら顔を見に来ないって言われて」
「良くないってどれくらい? 病気なの?」
「いや、病気ってほどじゃないんだけど……」
胸の内側で心臓が暴れ出す。気道が詰まるような感覚があり、息の仕方が突然分からなくなる。言葉に詰まる薫に、新吾はため息を吐く。
「……まあいいけどさ、美緒たちはどうするつもり?」
「美緒たちも連れていくよ。お父さん、孫の顔も見たいだろうし」
「家事はどうすんの? まさかやんないの?」
もう何も言えなかった。どうして新吾が休む週末に私が休むことは許されないんだろうか。私は365日無休で、奴隷のように働き続けなければいけないんだろうか。心のなかで感情が渦巻いて、言葉をのみ込んでいった。
「あのさ、普段家でのんびりをしてるんだからさ、せめて毎日家事くらいはしてくれって。俺、そんな難しいこと要求してるかな? 家事をしてくれとしか、薫には求めてないだろ? 頼むよ、よほどの急病なら俺だって止めたりしないけどさ。俺の稼ぎで暮らしてるんだから、そのサポートはしてくれよ」
たしかに専業主婦の薫の暮らしは、新吾の稼ぎで成り立っている。それは紛れもない事実で、変えようのない現実だった。
「分かった。変なこと言ってごめんね」
うつむく薫の目と鼻の先で、新吾は寝がえりを打って背を向けた。
自分の幸せは?翌日の午後、洗濯ものをたたんでいた薫に、大学時代からの友人である万里子から連絡があった。週末ランチに行こうという誘いだったが、昨日の今日で新吾の許しは出ないだろう。薫は家族で予定があって、と断るしかなかった。
『へぇ、いいじゃん。うちなんて息子も家族と出掛けたがらないし、そもそも旦那なんて寝てばっかだよ』
うん、と相づちを打ったつもりだったが、薫の声は出なかった。
『うちの旦那ってほんとに使えないんだよ。洗濯しておいてって頼んだら、服とかを洗濯機に入れてスイッチを押すだけで全部完了だと思ってるの。いや、干さないとダメじゃんって注意したら、そこまでは言われてないって言い返してきてさ~』
万里子の冗舌な話しぶりに、薫の気持ちはほだされる。普段ならば心の奥底に押し込めている気持ちが膨れ上がり、あふれていく。
「万里子のところはやってくれるだけまだマシだよ。うちなんて飯は? とか舌打ちばっかりだよ。ホント別れちゃいたいわぁ」
冗談で言ったつもりだった。それでも口にした言葉は、靄(もや)のように頼りなかった薫の気持ちの存在を確かに肯定してくれたような気がした。
『……でも、現実的には厳しいよね。旦那の稼ぎで暮らしてるんだし。薫のとこは子供が2人でしょ? これからかかる学費とか考えたら、ふつーに無理だよね』
「うん、まあそうだよね……」
薫は無理やり笑って、万里子との電話を終えた。
娘たちのことを考えれば、新吾との生活から下りることはできない。娘たちの幸せのために、新吾と別れることはできない。
じゃあ自分の幸せは?
空中分解していく問いは答えが出ないまま、陽だまりのなかに転がっていた。
娘からの信じられない言葉「薫はさ、洗濯ものの1つもまともにできないわけ?」
新吾は薫の鼻先に、胸のあたりに黒ずんだ三角形の模様をつけたワイシャツを突きつけて言った。
「ごめんなさい」
「いや、ごめんで済んだら警察いらないよね? ……ったく、いくらすると思ってんだよ、このシャツ」
うっかりしていた。アイロンをかけている途中に宅配便がやってきて、てっきり受け皿に置いたつもりで荷物を受け取りに行ってしまった。リビングに戻ってきたときにはワイシャツはにわかに煙をあげ、取り返しのつかないことになっていた。
「明日、新しいもの買ってくるから」
「は?」
新吾は目を細める。
「それ俺の金だよね? それ弁償って言わないよね? 頭大丈夫かよ」
「ごめん」
うつむいた薫の顔に、投げつけられたワイシャツが当たる。床に落ちたワイシャツは、視界の真ん中でみるみるうちににじんでいった。
「ごめんごめんごめんって、謝ってばっか。いまどきAIだってもう少しちゃんとしゃべるよ? ちゃんと人間だよね、あなた。頼むからしっかりしてくれよ」
新吾は吐き捨てて、家を出て行った。家の前の駐車場でかかったエンジン音が、窓越しに遠ざかっていった。
緊張から解放された薫はソファに座り込む。大きく息を吐き出すと、なんとか堪えてきた涙が静かにこぼれ落ちた。
「……ママ、大丈夫?」
声をかけられ、顔を上げると美緒がこちらを見ていた。その横には美緒に手を引かれた実里もいる。
「ご、ごめんね」
薫は慌てて涙を拭いた。
「ママ、もう無理しないで、離婚したっていいんだよ」
美緒は真っすぐに薫を見ていた。驚いて言葉が出なかった。
●自分のことしか考えない典型的なモラハラ夫。母子3人が幸せに暮らすことはできるのだろうか……? 後編【「娘の将来のため別れられないと諦めていた…」モラ夫へ計画的に三くだり半を突きつけた“痛快な手法”とは?】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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