グラウンドに響く鈍い激突音…高校球児を襲った“想定外のアクシデント”と祖父の「異変」
Finasee / 2024年7月26日 17時0分
Finasee(フィナシー)
毅は自転車で母校でもある高校へと向かう。50年前は今ほど舗装もされていなかった川沿いの道を進み、校舎と道路1本挟んで隣りにある野球部専用グラウンドへ向かう。三塁ベンチ側の木の下に自転車を止めるころには、大きな掛け声が聞こえてきている。
わが校名物の特守をやっているようだ。大声でボールを呼び込み、それに答えるようにバットが鋭い打球を飛ばす。腰を落として声を張る球児たちの練習着は土まみれだ。
特守はこの時期の伝統的な練習メニューだ。監督直々のシートノックは、沈みゆく夕日が完全になくなり夜になっても続く。昔はナイター設備もなかったため、暗くなるとボールはほとんど見えなかった。勘で動けばふざけるなと監督に怒られるのだから、とんでもない理不尽だったと思わず笑みをこぼす。
毅は3年前に40年以上勤めあげた会社を定年退職した。
仕事人間だった毅には時間を忘れて楽しむような趣味はあまりない。ただ、野球だけは別だった。かつて甲子園を目指した高校球児だったこともあり、毅は高校野球だけは欠かさず試合をチェックしていた。特に毅の母校は県内では強豪と呼ばれていて、甲子園にも出たこともある。ここ最近は惜しいところで終わっているが、何としても今年は甲子園に出てほしいと毅は思っていたし、その実力は十分にあると思っている。
それは単に母校だからというわけではない。今年、母校には孫の俊太郎がいるのだ。俊太郎は今まさにグラウンドでノックを受けていた。ショートを守る俊太郎は軽快な足さばきでボールをつかみ、流している。現役時代の自分よりも明らかに野球の才能があると毅は思っていた。
そんな俊太郎にとって今年は最後の夏。是が非でも甲子園に行ってほしかった。毅は折を見て、自転車の後ろに積んできていたゼリーの段ボールを抱えてグラウンドに近づいた。マネージャーの女子生徒が気付いて近づいてきたので、段ボールごと渡す。中に入って見学を勧められたが、特守中では邪魔になると思って断った。毅はフェンスの外に戻り、球児たちが立てなくなって特守が終わるまで、彼らの様子を見守り続けた。
特守の後のどんぶり飯家に帰ると、妻の佳枝が料理を準備していた。
「お帰り。もうご飯できてるわよ」
帰ってくる時間がまるで分かっていたかのようなタイミングだ。
「ああ、ありがとう。手を洗ってくるよ」
それから毅は食事を取りながら、俊太郎の状態について佳枝に報告した。佳枝は野球には全く興味がなかったが、それでも元気そうな孫の話をうれしそうに聞いていた。
食事も終わりかけたころ、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だこんな時間に」
毅は眉間にしわを寄せ、インターホンの画面を見る。するとそこには俊太郎の姿があった。毅は一目散に鍵を開ける。するとそこには泥だらけの練習着を着た俊太郎がいた。
「おお、どうかしたのか?」
「今日、母さんも父さんも帰り遅いらしくってさ、ちょっと飯食わして。腹減って死にそうなんだ」
「そうか! ばあちゃんに言ってくるよ」
佳枝に事情を伝えると、すぐにご飯を温め直して用意してくれた。俊太郎は目の前に出された料理を前のめりに頰張った。
毅が現役だったとき、特守のあとは米粒1つすら喉を通らなかった。特守をこなしたあとであってもどんぶり飯をかき込めることもまた、俊太郎の代にかけられる期待の根拠なのかもしれない。
「おじいちゃん、そういえば今日も来てたでしょ?」
「えっ、気付いてたのか?」
「うん、毎日来ててさ、飽きないの?」
「孫が頑張ってるところを見られるんだから、飽きるわけないだろ」
毅がそう言うと、俊太郎はうれしそうに笑った。
「俺、今年はようやくレギュラーだから。今年こそ甲子園行くからね」
俊太郎の発言に気負ったところは全く感じられなかった。
その自然体な様子がとても頼もしく思えた。
2週間の絶対安静事態が変わったのはそれから1カ月後の6月末――夏の地区大会を目前に控えたときだった。実戦形式のシートノック中、レフト方向に浅い外野フライが上がり、ショートを守る俊太郎は後退。前進してきていたレフトと接触してしまったのだ。
チームメイトや監督が駆け寄る。毅はダイヤモンドのなかにまでは入らなかったが、フェアラインぎりぎりまで入ってきて毅の様子をうかがった。周囲の様子から、状況があまりよくないことは想像できた。三塁側のフェンスの外から見ていた毅にも鈍い激突音がはっきりと聞こえていたほどの強い衝突だった。
ようやく人だかりのなかから肩を貸されて立ち上がった俊太郎の姿が見えた。俊太郎の左頰は砂まみれで、表情は苦しそうにゆがんでいた。
「――俊太郎!」
ようやく、毅は叫ぶことができた。俊太郎が顔を上げ、そして目をそらす。
俊太郎は監督の車に乗って病院へと連れていかれ、毅もそれに乗り込ませてもらった。病院までは15分程度の道のりだったが、永遠にも等しいほど長い時間に感じられた。毅は黙って窓の外を見ている俊太郎に言葉をかけることができなかった。
俊太郎のけがは肩の打撲だった。日常生活に支障が出るようなけがではなかったが、利き腕の右肩であることもあり、医者からは2週間の絶対安静を言い渡された。病院のロビーのベンチに座った俊太郎は、うつむいたまま動かなかった。
「俊太郎……」
毅は声をかけようと口を開くが言葉が続かない。3年生で最後の予選。このときのために頑張っていたことは、毎日練習を見ていたからこそよく知っている。
それに2週間というのも微妙な期間だった。参加校の多い都道府県であれば、予選は1カ月間あるが、そうではない県の予選は半月もすれば終わってしまう。もちろん半月というのは決勝まで勝ち進んだ場合の話で、もしその前にチームが負けてしまえば、もっと早く夏は終わる。
つまり俊太郎は最後の夏、試合に出られずに終わるかもしれないのだ。
「俺、多分、試合には出られない。守備を買われてるから」
俊太郎の声は震えていた。
もし仮に、俊太郎の売りが打撃であれば、ファーストなどにコンバートして、試合序盤に出場させるという選択肢もあっただろう。
「俊太郎、ベンチには入れるんだろう? 仮に試合に出られなくなって、できることはある。チームを支えるんだ。そういう姿勢が、必ずプレーに返ってくる」
「いいよ、精神論は。もうプレーすることなんてないかもしれない」
「行くんだろう、甲子園。なら、まだプレーできるチャンスはいくらでもある」
元気づけるつもりで言ったが、それは単なる正論で、高校球児かくあれかしという理想論に過ぎなかった。だからまだ気持ちの整理がついていない俊太郎には響かなかったのだろう。俊太郎は無言でうなずいただけだった。
暑さが厳しい球場で翌週から、いよいよ俊太郎にとって最後の夏が始まった。
仕事のない毅は当然毎試合、球場に足を運んだ。梅雨の長雨の影響もあってか7月に入った球場はとにかく蒸し暑く、選手たちはもちろん、応援しているブラスバンドや観客も全員大変そうだった。
俊太郎の高校は県内では強豪とされているだけあって、序盤は大差をつけて危なげなく試合に勝っていく。私立のシード校との対戦となった準々決勝は、守備のミスもあり接戦となったが、継投策が功を奏して見事に勝利することができた。
ただやはり俊太郎の出番はなかった。
「あら、今日もしゅん君は出なかったわね」
一緒に観戦していた佳枝が残念そうに話す。
「俊太郎は代打の切り札だからな。相手にデータを渡す必要もないし、ここ一番ってときに使うのさ」
毅はそう佳枝に答えながら、自分に言い聞かせていた。スタンドへのあいさつを終え、選手たちが引き上げていく。応援団も次の学校に場所を空けるため、すぐに動かなければいけなかった。
「よし、それじゃあ帰りましょうか? ……大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「………何でもないよ。平気だ」
立ち上がるとき、体の重さを感じた。今まで感じたことのない重さだった。
バス停まで2人で並んで歩く。隣では佳枝が何かを話している。まるで遠くから声をかけられているくらい、声が小さい。
「ねえ、大丈夫?」
佳枝が声をかけてきたが、返事をする気力もなかった。
目の前にベンチが見える。毅はフラフラとした足取りで、ベンチに座り込む。
すると急に視界が真っ暗になった。
●孫の応援に精を出していた毅はついに倒れてしまった。俊太郎の球児としての夏はどうなる……? 後編【熱中症で救急搬送された祖父…心が折れた高校球児の孫を奮い立たせた「苦手を克服できるコツ」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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