初孫より仕事を優先…仕事人間の50代夫を突然襲った「予想だにしなかった苦境」
Finasee / 2024年7月29日 17時0分
Finasee(フィナシー)
愛子は浮つく気持ちを抑えるようにリビングのテーブルを布巾で拭いていた。今朝、やったばかりで意味もない行動だと分かっていてもじっとしていることができなかった。何度も携帯を見ながらソワソワしていると、チャイムが鳴った。小走りで玄関に向かいドアを開けると、娘・瑠璃の笑顔と抱っこひもの中ですやすやと寝ている孫の亮介の姿があった。
「かわいい」と声を上げそうになったが、大きな声を出して起こすわけにはいかないと、寸前で言葉を飲みこんだ。
「おかえり」
小さな声で瑠璃に声をかけると、瑠璃はうれしそうに笑った。娘の瑠璃は大学を卒業した5年前、就職のため家を出た。その3年後に結婚し、ついに子供を出産したのだ。あらかじめ用意しておいた簡易のベビーベッドに亮介を寝かせ、コーヒーを出して帰省した瑠璃をねぎらう。
「お疲れさま。子供を連れての帰省は大変だったでしょ?」
「ううん、お利口さんに寝てくれてたから、そこまで大変じゃなかったよ」
愛子はベビーベッドに目を向ける。
「寝る子は大きくなるからね。将来が楽しみねぇ」
「まあ、私としては、取りあえず元気に育ってくれれば良いとしか思わないけどね」
「確かに、私もそんな感じだったかな~」
愛子は買っておいたクッキーを頰張りながら昔を思い出していると、瑠璃がキョロキョロと辺りを見渡した。
「そういえば今日、お父さんは?」
「お父さんは仕事」
「ふふ、お父さんらしいね」
「ほんとよ。いっつも仕事、仕事、仕事。それ以外の言葉を忘れちゃったんじゃないかしら」
「私もお父さんと遊んだ記憶、ほとんどないなぁ」
「一樹さんはどうなの?」
瑠璃は笑顔で首を横に振る。
「真逆。朝、亮介の寝顔を見て、仕事行きたくないってごねてるもん。でもその代わりに、休みの日も積極的に亮介の面倒を見てくれて助かってるんだけどね」
「あら、あの人とは正反対ね。まあそういう旦那さんのほうがいいと思うわよ」
「今日だってね、仕事なのに寂しいからついてくるって言って聞かなかったくらいなんだから」
「何だか申し訳ないわね」
「気にしなくて良いよ。何だかんだで久しぶりの1人を楽しんでると思うし。でさ、お父さんは何時くらいに帰ってくるの?」
時刻は17時を過ぎていた。夫の勇の仕事は定時なら18時までなので、19時前には帰宅するはずだ。しかし愛子は目を細める。
「さすがにこんな日に残業してくるわけはないと思うんだけど……」
「いや、ありそう」
愛子の質問に瑠璃は声を出して笑った。まさかそんなことはしないだろうと愛子は内心考えてはいたが、やはりそのまさか。勇が帰ってきたのは9時近くになってからだった。
寝ている孫をじっと見つめる「遅かったね」
「ああ、残業だったからな」
玄関で勇を出迎えた愛子はあきれて首をかしげる。
「こんなときくらい、断ればいいじゃない」
「そんなわけにいくか。こっちは給料もらってるんだぞ」
「だって今日は、愛子と孫が来てくれてるのよ」
「泊まるんだろ? だったら、いつ帰ってこようが関係ないだろ」
不満そうに勇は自分の部屋に戻っていった。部屋着に着替えて、勇は孫と初対面を果たす。
「さっきようやく寝たんだから、絶対に起こさないでよ」
瑠璃にそうくぎを刺されたので言葉こそ発しないが、勇は寝ている亮介の姿をじっと見守っている。愛子と瑠璃はその様子を眺めつつ、笑いを堪えて洗い物をする。
「別に家族をないがしろにするタイプじゃないんだけどね」
「そうね。悪い人じゃないんだけど、なんかこう、真面目というか不器用というかね。もっと肩の力を抜いて仕事すればいいのに」
せっかく孫がウチに来るなんて大切なイベントのときくらいは、せめて残業せずに帰ってきたらいいのにと思わなくもないが、勇が仕事を頑張っているのは家族のためだったり、会社の仲間のためだというのが分かっているから、愛子も何も言わなかった。
「ああやって寝顔を見てるだけで満足なのかしらね? 起きてるときはもっとかわいいのに」
「さあ。でも孫がかわいいのは間違いないんじゃない?」
「うん、それはそうね」
さっきから亮介の前から動こうとしない勇を見ると、愛情は嫌と言うほど伝わってくる。洗い物を終えた瑠璃が亮介を寝室に移動させると、ようやく久しぶりに家族3人の時間ができた。
「一樹くんはどうなんだ? 仕事は順調なのか?」
ビールを口に含み、勇が瑠璃に話しかける。
「うん、もちろんよ。仕事そうだし、家族サービスもしっかりしてくれてるわ」
「誰かさんと違ってね」
愛子の言葉に瑠璃は吹き出す。勇は何のことか分かっていないのか、朴訥とした態度のままかまうことなく話を続ける。
「ま、家庭を支えるっていうのは大変なことだからな。一樹くんには仕事を頑張ってもらわないと」
「一樹さんにあなたの仕事中毒をうつさないでよね」
「中毒? なんだそれは?」
意味を理解してない勇の返しに愛子たちは声を出して笑った。
突然倒れた父「ありがとうね。また遊びにおいで」
「うん、今度は一樹も一緒に連れてくる」
翌日、昼食を終えたタイミングで瑠璃は帰り支度を整えた。愛子は見送りにきているが、勇はリビングで経済新聞を読み込んでいて全くこちらの会話に入ってこようとしない。
「じゃあね、お父さん、また来るからね」
「ああ、気をつけて」
扉の隙間からのぞき込むようにして声をかけた瑠璃に、勇はあっさりと返事をした。新聞を閉じたのでこっちに顔を出しに来るのかと思いきや、お茶をくみにキッチンへ向かっただけのようだった。
愛子はサンダルを引っかけて、家の前まで瑠璃たちを送った。瑠璃の運転する車が見えなくなるまで見送って家のなかへと引き上げると、リビングには新聞が広げっぱなしになっているだけで勇の姿がなかった。
「お父さん?」
愛子は首をかしげながら、勇に呼びかける。声は返ってこず、愛子はキッチンをのぞき込む。
「――お父さん!」
キッチンに、うつぶせになって倒れている勇の姿があった。
●突然倒れてしまった夫。容体は……? 後編【58歳で脳梗塞を発症してしまった夫…早期退職の末、抜け殻のようになった夫を救った「妻からの提案」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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