58歳で脳梗塞を発症してしまった夫…早期退職の末、抜け殻のようになった夫を救った「妻からの提案」
Finasee / 2024年7月29日 17時0分
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Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
愛子(56歳)は、出産した娘が孫を連れて泊まりにきた事が嬉しくて仕方なかった。こんな大切な日に、孫の祖父でもある夫の勇(58歳)の姿はない。仕事人間の勇は連絡もよこさないまま残業で夜遅くに帰ってきた。
寝ている孫を絶対に起こさないようにとくぎを刺されたので、勇は寝ている亮介の姿をじっと見ていた。ベビーベッドの前から動こうとしない勇からは、孫への愛情が伝わってきた。
翌日、愛子が娘を家の前で見送ってから部屋に戻ると、リビングに勇の姿がない。首をかしげながら「お父さん?」と呼びかけるも声は返ってこず、キッチンをのぞき込むと、うつぶせになって倒れている勇の姿があった。
●前編:初孫より仕事を優先…仕事人間の50代夫を突然襲った「予想だにしなかった苦境」
脳梗塞を発症してしまった夫勇は救急病院に搬送された。病名は脳梗塞。しかし迅速な対応の結果、命に別状はなく、後遺症なども残らないという話だった。とはいえ、経過観察のためにしばらくは入院になるとのことだったので、1度家に帰った愛子は翌日になって着替えなどを届けに再び病院を訪れていた。
「どう、調子は?」
「ん、もう普通だよ。早く退院したいな」
「まだダメよ。お医者さんの言うことをちゃんと聞いてよね」
「でも会社が心配だ」
こんなときまで仕事か……、と愛子はあきれた。しかし仕方がないのだろう。勇の人生は仕事とともにあるのだ。
「早く復帰できるといいわね」
「ああ、1日でも早く戻らないとな」
それから何日かして退院のめどがついたころ、勇の勤勉さを証明するように、病室に勇の上司だという男がやってきた。四十がらみの男で、きっちりと分けられた白髪交じりの七三は、エリートという表現がぴったりな印象だった。
「初めまして、部長の横下と言います」
「は、初めまして」
横下は勇に目を向ける。
「お加減はどうですか?」
「もうすっかりいいですよ」
「そうですか」
あいさつもそこそこに、愛子は病室を出た。仕事の話ならば、自分はいないほうがいいだろうと判断した。愛子は時間つぶしを兼ねて日用品の買い物に出掛けた。1時間くらい外出し、勇が好きそうな本や雑誌をいくつか買って病室に戻った頃にはもう横下の姿はなかった。
勇は窓の外に目を向けている。簡易テーブルの上には茶封筒と資料が置かれている。
「部長さんはもう帰られたの?」
「……ああ、とっくに帰ったよ」
勇の言葉には棘があった。こんな言い方をするのは珍しい。口数は少ないが、誰かの悪口を言うこともなく、穏やかなのが取りえだった。
「仕事の話だったんでしょう? 何だって?」
「……辞めてほしいらしい」
本を取り出す手が止まる。聞き間違いかと思った。顔を上げてテーブルを見ると、置いてある資料が早期退職者支援制度のものだと分かった。
「これ以上仕事をして、また再発したら危ないからって言ってたよ」
「どうするの……?」
「辞めるしかないだろ。これ以上会社に迷惑をかけるわけにはいかないからな」
進退がかかっているときでも会社のことを思いやれる人。ただこのときばかりは退職という判断をせざるを得ないということが悔しくてたまらなかった。毎日身を粉にして仕事だけ頑張ってきたのに、定年を迎えられずクビを宣告されるなんてあんまりだ。今すぐ電話して、あのエリートに一言言ってやりたい気持ちだったが、勇が望んでないことは分かったから、愛子には口をつぐむしかなかった。
抜け殻のような日々それからというもの、退院と退職をした勇は抜け殻のように自宅でぼんやりと過ごすようになってしまった。購読していた経済新聞も読まなくなり、もともと多くはなかった口数も極端に減った。それでもハローワークに行ったり、求人情報誌を読んだりしていたから、退職直後はまだ前向きな気持ちも多少はあったように思う。しかし多くの仕事が年齢制限の壁を越えられないと知って、少しずつ失望が大きくなっているのが目に見えて分かった。自分はもう社会に求められていないと痛いほどに思い知ってしまったのだろう。
「ねえ、あなた、毎日そこで過ごしてても退屈でしょ? 何かやりたいこととかないの?」
「……そんなものはないよ」
無気力な返事に愛子は焦燥感を募らせる。
「何でもいいのよ。旅行とか。ほら、ゴルフとかもお付き合いでやってたじゃない。グラブとか、物置でほこりかぶってるんだし、久しぶりに出してみたら?」
「いや、いいよ。付き合いでやってただけだから」
「病院の先生がおっしゃってたんだけどね、脳梗塞って再発しやすい病気なんですって。だからその予防をすることが大事って言ってたのよ。動脈硬化を防ぐためには運動が良いっておっしゃってたから、一緒に散歩でもしましょうよ。ずっと座って動かないんじゃ身体にコケが生えちゃうわよ」
「そうかもな……」
なんとか気分を盛り立てようと愛子が言葉を尽くしても、勇は覇気のない表情で返事するだけ。さすがの愛子もだんだんといら立ってくる。
「もう、しっかりしなさいよ。いつまでそうしてるつもりなの」
愛子は語気を強め、あらかじめ買っておいた新しいジャージを勇に押し付けた。
「いい? 明日、朝起きたらまずこれに着替えること。7時半に、ウオーキングに出掛けますからね。拒否はできません。分かった?」
勇は「ああ」と「いや」のちょうどあいだくらいの、曖昧な返事をした。
しかし、やれと言われればきちんとやるのは勇の性分で、翌朝身支度を終えた愛子がリビングに向かうと、勇は所在なさげに椅子に座って待っていた。
真新しいジャージを着た勇は、不満そうに、あるいは気恥ずかしそうに口を開く。
「ジャージなら家にあるんだから、わざわざ買わなくてもなぁ」
「ダメよ。せっかく始めるんだから、カッコいい格好をしたほうが、気分がいいでしょ?」
「いや、まあ、どうだろう……?」
「いつまでも小さいことにこだわってないで、行きますよ」
愛子は無理やり話を終わらせて、玄関へ向かう。
「近くに運動公園があるから、今日はそこを一周して戻ってきましょうか?」
「ああ、分かった」
淡泊な返事だったが、勇は靴を履くや足のストレッチをしていた。案外乗り気なのかもしれない。2人は並んでただ歩いた。腕を上げるといった正しいフォームがあるらしいが、そんなことは今は気にしない。
思えば移動は車やバスがほとんどで、愛子も運動をするのは久しぶりだった。案の定、すぐに足が疲れてしまい、運動公園に着くと、早々に愛子はベンチに座り込んだ。勇も少しだけ汗がにじんでいるが、毎日働きに出ていただけあって体力に分があるのか、まだ疲れはそれほどでもなさそうだった。
軽くタオルで額の汗を拭きながら、愛子は明らかに勇の表情が生き生きしているのを感じていた。勇の見据える先の芝生では、朝早いというのに小さな子供たちがサッカーボールを元気に追いかけていた。
「昔、俺はサッカーをしていたんだ」
「え? そうだったの?」
知り合って初めて知った事実だ。
「マラドーナ全盛の時代でな、憧れてよくまねをしていた」
「へえ、知らなかった。そう言えばサッカーの試合、よく見てたもんね」
「ああ、下手くそだからやるのはうんざりだが、見るのは好きだな」
勇が自分のことをこうして話すのは珍しいことだった。
「じゃあ、今度一緒にサッカーの試合を見に行こうよ。スタジアムで見るともっと楽しいんじゃない?」
愛子の提案に勇はわずかに口角を上げた。
「そうだな。そんなことができるようになったんだな」
「そうよ。のんびり楽しく過ごしましょうよ」
勇はようやく、ほんの少しだけ退職したことをポジティブに捉えることができたのかもしれない。歩いた分だけ血色のよくなった夫の横顔は、そんな風に見えた。
夢中になれる事それから毎朝のウオーキングは2人の日課になった。
良かったのは運動不足が解消されたことだけではない。退職以来だんまりだった勇の口数が増え、2人のあいだに会話が増えたのだ。勇もすっかり仕事をなくしたショックからは立ち直ったように見え、以前よりも元気になった。
いつものように7時半に家を出て、運動公園を3周した後、ベンチに座って水分補給をする。
「なあ、単にウオーキングをしているだけじゃつまらなくないか?」
「え、どうしたの急に?」
「何か目標があったほうがいい。そうだな、たとえば、フルマラソンに出てみないか?」
愛子は思わず顔をしかめた。
「なにばかなこと言ってるの。せっかく長生きのために始めた運動なのに、そんなことしたら寿命がうんと縮んじゃうよ」
「俺たちよりも年配で走ってる人はたくさんいるよ。俺たちだってできるはずだし、目標は高い方がいいだろ」
キラキラと目を輝かせる勇を見て愛子は肩をすくめた。
「あきれた……。あなたって、何でもそうやって一生懸命やらないと気が済まないのね?」
「どうだ?」
「まあ、目標目標って言うだけはタダだからねぇ……」
「よし、それじゃ、今日は帰りをジョギングにしよう。そうやってちょっとずつ走れる距離を長くしていけば、42キロくらいは走れるようになるはずだ」
そう言うと勇は軽い足取りで走りだす。慌てて、愛子はその後を追った。
仕事中毒なんてばかにして言ってたけど、この人の場合は「夢中」だ。夢中になることが必要なんだ。
「ほら、愛子、ガンバレ」
「はいはい、頑張ってますよ」
すぐに息が乱れる。しかし嫌な気分ではない。心地よい拍動が左胸をたたいていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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