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「今すぐ出ていきなさい」頑固な母親と結婚をめぐり大げんか…25年後、娘の元へ届いた“1通の手紙”

Finasee / 2024年9月13日 11時0分

「今すぐ出ていきなさい」頑固な母親と結婚をめぐり大げんか…25年後、娘の元へ届いた“1通の手紙”

Finasee(フィナシー)

娘にとって母親は家族の中で一番近い存在でありながら、両者の間はこじれやすいと言われます。その理由として、母娘の情愛に立場の違い、嫉妬、世代間ギャップなどさまざまな感情が複雑に絡み合っていることが指摘されています。

内村香苗さん(仮名)も母親との不仲に悩んだ1人です。自身が家出をすることで強引に関係を断ちました。しかし、離婚して娘と暮らすようになり、再び、母親と過ごした時代のような居心地の悪さを覚えるようになったと言います。

母親の死を知らされたのは、そんな時でした。香苗さんが家を出てから既に25年の歳月が流れていました。母親は香苗さんに500万円の預金と手紙を残しました。「経済的に困っているわけではないし、それまでの自分だったら絶対受け取らなかったと思う」という500万円を、香苗さんは受け取る決心をします。香苗さんの心を動かした母親からのメッセージや、香苗さん自身の心変わりについて、ご本人に話してもらいました。

〈内村香苗さんプロフィール〉

東京都在住
47歳
女性
喫茶チェーン経営
離婚後、大学院生の娘と2人暮らし
金融資産6500万円

***
 

この時期は、フラワーショップの店先で可憐なコスモスの花をよく見かけます。昭和の歌姫や人気ダンスヴォーカルグループの名曲でも歌われたこの花が好きな方は多いと思いますが、私にとってはトラウマです。

郷里を捨てた25年前の秋、コスモス畑の中を1人、泣きながら駅まで歩いた時の記憶が今も鮮明に残っているからです。

頑固で自分の考えを曲げない母親

家を出たのは、母に結婚を反対されたことがきっかけでした。当時の私は22歳の誕生日を迎えたばかり。東京の短大時代に知り合った前夫と結婚したいと切り出したら、母はいきなり怒り出したのです。

「お前みたいな田舎娘に、いいとこのお坊ちゃんの嫁なんて務まらない。どうせすぐ別れるに決まってる。田舎娘は田舎娘にふさわしい相手を見つけなさい」

いかにも母らしい一方的な物言いだと思いました。母は今風に言うならコミュ障気味で決して口数は多くないのですが、頑固で、こうと言ったら絶対に考えを変えません。

私が子どもの頃、保護者会や授業参観にやって来ても、母は他の友達のお母さんから離れたところにポツンと1人でいるのが常でした。母の親しい友人と言えばお隣さんの川口さんと、幼なじみの正枝さんくらい。クラスの友達の家に遊びに行くたび、手製のクッキーやプリンを振る舞ってくれて、私たちと一緒に学校や人気のアイドルの話に興じる社交的なお母さんがうらやましいと思っていました。

田舎者の母の目には、前夫は「都会のいいとこのお坊ちゃん」と映ったのでしょう。

合コンで知り合った前夫の両親は、都内で家具のチェーン店を経営していました。前夫は次男坊ですが、学生時代から外車を乗り回すような派手な生活をしていました。裕福な両親にかわいがられて育ったせいか、如才ない半面、気分屋で自己中心的で他人には冷淡。今思えばそんな人をよく好きになったものだと思いますが、外見がその頃推していたアイドルにちょっと似ていたのです。

相性の悪さは社会人になっても変わらなかった

一方、わが家は転勤族の父と、給食センターでパートをする母と、3歳上の兄の4人家族でした。父は盆暮れくらいしか帰宅せず、家のことや子どものことは全部母に任せっ放し。その頃住んでいた北九州に愛人がいたようです。市役所に勤務する兄は温厚で学校の成績もよく、母のお気に入りでした。私が家を出る2年前には幼なじみの義姉と結婚して甥っ子も生まれていました。

私と母はもともと相性が良くありませんでした。私にひと言の相談や説明もなく、一方的にいろいろなことを決めて押し付けてくる母が許せず、いつも反発ばかりしていました。兄は同じようなことをされても受け入れていたので、母からすれば、私はさぞや扱いにくい子どもだったことでしょう。

特に母の勧める地元の女子高でなく共学の高校に入学してからは母娘げんかが絶えず、間に入って困り切った兄の「しばらく家を離れたら?」というアドバイスで東京の短大への進学を決めたのです。

そのまま東京で就職するつもりでしたが、母は断固として許しませんでした。そして、父の口利きで地元の建設会社の事務職として働き始めたのです。

とはいえ、社会人になっても母との関係性は一向に変わりませんでした。一緒にいるだけで窮屈感を覚え、イライラする。それが前夫との結婚に前のめりになった大きな理由でもありました。

母にしてみれば立派な跡取り息子がいて、孫も生まれたわけですから、私が上京して結婚することも許してもらえるだろうと楽観的に考えていました。けれど、そうは問屋が卸さなかったのです。

家を飛び出して始まった結婚生活も長くは続かない

25年前の地元の祭りの日、兄が甥を連れて義姉の実家に出掛けた後に母と大げんかになり、「お前なんて娘と思わない。今すぐ出ていきなさい」と言われ、「言われなくても出ていく!」と啖呵(たんか)を切って家を飛び出しました。

洋服や化粧品を手当たり次第に入れたキャリーバッグを引きながら、コスモス畑の間の小道を最寄り駅へと急ぎました。遠くに祭囃子の音が聞こえました。

駅から東京の前夫に電話をすると、前夫は相当驚いていましたが、「何とかするから」と言ってくれました。

そのまま前夫のマンションに転がり込み、半年後に結婚。披露宴は義両親の仕事の関係者など300人を招いて盛大に行われましたが、私の親族は誰一人呼びませんでした。

1年後の夏、第1子となる娘の未来が生まれました。その2年後には息子の希にも恵まれましたが、前夫とは結婚15年で別れることになりました。ママ友仲間と始めた喫茶店が軌道に乗って家庭を顧みなくなった私を、夫や義両親が許さなかったからです。

跡取りの希は置いていくように言われ、未来だけ連れて家を出ました。そこから母娘2人の生活が始まりました。

皮肉なことに、未来と私の関係性は、昔の私と母の関係性そのものでした。人とうまく付き合えず、かたくなに自分の意思を押し通そうとする未来の性格は母によく似ていました。

私はそんな未来をずっと持て余してきましたが、未来は大学入学後も一向に家から出ていく気配はなく、今春からは大学院に通っています。

そうした中でこの夏、家を出てからずっと音信不通だった兄から突然手紙が届きました。そこには「母さんが亡くなった。話したいことがあるので一度会わないか」と書いてありました。

●亡くなった母親は内村さんに手紙を残していました。そこに綴られていた溢れんばかりの想いとは……? 後編【「何もしてやれなかった」相性最悪だった母と娘…亡き母親の手紙に綴られていた「意外すぎる本音と後悔」】で詳説します。

※個人が特定されないよう事例を一部変更、再構成しています。

森田 聡子/金融ライター/編集者

日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。

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