「あの時引き返していれば」人間の食料を荒らしたばかりに命を奪われた動物…50代夫婦が「後悔の代わりに行うこと」
Finasee / 2024年9月11日 17時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
美弥子(48歳)は、大学生になった息子を置いて、夫の竜也(52歳)と初めてのキャンプに来ていた。せっかくだから自然を満喫したいと、人が集まる場所からは少し距離を置いてテントを張り、近くの川でくつろいでいる間に何者かによって荷物が荒らされてしまう。
通りすがったキャンパーに「熊かもしれない」と忠告されるが、熊よけの鈴など、事前準備に自身があったことから、移動せずにそのまま夜を迎えた。
夜、眠りについた美弥子はテントの外から聞こえる物音で目を覚ました。大量の枝をへし折るような音、ガリガリひっかく音など、各実に「何か」がそこにいる音だった……。
●前編:「もしかしたら熊の仕業かもしれません」アラフィフ夫婦が危機に陥った「自己判断の恐怖」
熊と目が合ってしまった美弥子が恐る恐るテントから外をのぞくと、消えたたき火のところに大きな熊がいた。熊はクチャクチャと音を立てて、何かを食べているようだった。
「あっ……」
視線に気づいた熊と目が合ってしまい、美弥子は思わず身を隠す。叫びそうになる口を両手で抑え、必死で堪えた。美弥子は下唇を血が出るほど強くかんで、その上から手のひらで押さえ、息を殺した。全身が心臓になったように激しく脈打ち、もはや自分の鼓動以外何も聞こえなかった。動けば気づかれてしまうのではないかと思うと、美弥子はまばたきすら満足にできなかった。
薄っぺらいテント越しに、獣の荒々しいそしゃく音が不気味に響いていた。
(えっとえっと……まずは落ち着いて! それから静かに! あとは……なんだっけ?)
美弥子の思考は、恐怖とパニックに塗りつぶされ、ほとんど意味をなさなかった。竜也と一緒に確認したはずの熊遭遇時のマニュアルは半分も思い出せなかったし、持参した熊撃退スプレーの存在もすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
永遠とも思える時間の後、熊の気配が遠ざかっていくのが感じられた。気配が完全に消えて辺りに静寂が戻ると、美弥子は大きく息を吐きながらその場にへたり込んだ。
ようやくまともに呼吸ができるようになると、今度は「熊に遭遇した」という恐ろしい現実が美弥子に襲い掛かって来た。自分たちの寝床から、5メートルも離れていない距離に野生の熊が出たのだ。いつの間にか背中にびっしょりと嫌な汗をかいていたが、そんなことを気にしている余裕は美弥子にはなかった。
「あなた......! あなた起きて! 熊が出たわ!」
美弥子が今度は激しく揺さぶりながら呼びかけると、やっと竜也は眠たそうにのっそりと身体を起こした。
「うぅん……何が出たって? 虫なら自分で退治してくれよ」
「虫じゃなくて熊よ! 熊! あの人が言った通り、すぐそこに熊がいたの!」
美弥子が押し殺した声で叫ぶように言うと、竜也ははじかれたように立ち上がった。
「熊だって……⁉ どこにいる?」
「ついさっきまでたき火のところにいたのよ。私、心臓が止まるかと思ったんだから」
美弥子は、竜也に説明しながら先刻の恐怖体験を思い出して思わず涙声になった。竜也は美弥子から話を聞くと、青ざめた顔でリュックサックから熊よけスプレーをとり出し、テントの入り口をにらみ付けるように座り込んだ。
「僕が朝まで見張っておく。異変があれば起こすから、美弥子は少しでも眠っておいて」
竜也はそう言って寝ずの番を申し出てくれたが、結局、美弥子は朝まで眠ることができなかった。昼間はあんなに心地よいと感じていた自然音も、熊と遭遇した美弥子にとっては恐怖の対象でしかなくなっていたのだ。
食い荒らされていた食料翌朝になって、ようやくテントの外に出ることができた美弥子と竜也は、自分たちが寝床に選んだキャンプサイトの状況を確認した。美弥子が昨晩熊を目撃したたき火の跡に行ってみると、美弥子たちが食べきれなかった分の夕食やキャンプ用のレトルト食品などがすっかり食い荒らされていた。食料は全てクーラーボックスの中にしまい、ゴミは臭いが出ないように袋に入れて固く口を縛っておいた。
両方ともタープテントの下に置いて寝たはずなのだが、それらはいつの間にかたき火の近くに投げ出されていた。地面に引きずったような跡があることから、昨日の熊がふたを開けようとしているうちに移動させてしまったらしい。もちろんクーラーボックスには引っかいたらしい爪の痕が深く刻み付けられている。
「信じたくないが、本当に熊がここにいたんだな。ほら、美弥子も見てみなよ」
その場にしゃがみ込んで熊の痕跡を観察していた竜也が、ふいに立ち上がってクーラーボックスを指さした。言われた通りに美弥子が見てみると、クーラーボックスの留め具に何か黒いものが挟まっているのが分かった。
「おそらく熊の体毛だろうね。食料をあさる時に引っかかったんだと思う」
不気味な音を立てながら食料をむさぼる熊の姿が脳裏に浮かび、美弥子は思わず身震いをした。もしも熊がクーラーボックスの食料だけで満足しなかったら、美弥子たちのテントの中にまで入ってきていたかもしれない。
「あなた、早く人がいる場所に戻りましょう。これ以上ここにとどまりたくない」
「そうだな。さっさと撤収してキャンプ場へ報告しよう」
竜也はそう言うと、テキパキと荷物を片付け始めた。美弥子もこみ上げる嫌悪感を我慢しながら散乱した食料をまとめ、黙々と撤収作業をして、足早にその場を去った。
キャンプ場の中心地へ戻って人の気配が増えてくると、美弥子は心から安堵した。昨日、あれだけ解放されたがっていた騒がしさが、今は涙が出るほど懐かしく思えたのだ。美弥子たちは、キャンプ場に今回のことを報告し終えると、ようやく家路についたのだった。
あの時引き返していれば…美弥子たちの報告を受けたキャンプ場の運営者は、すぐさま地元猟友会へ協力を要請したそうだ。キャンプ場は一時的に閉鎖されたが、数週間後、熊射殺のニュースとともに営業再開を目指すことを発表した。今後はキャンプ可能エリアを限定することや、熊が身を隠しやすいささやぶの伐採、電気柵の設置なども検討しているという。
美弥子たちは少し後になってから知ったことだが、1度でも人間の食料を食い荒らした熊は地元の猟師によって射殺されるのだそうだ。人間の近くで食料を手に入れることに味をしめた熊は、また同じ場所にやってきて、今度は人を襲いかねないからだ。つまり、今回キャンプ場近くで猟友会に射殺された熊は、美弥子たちと遭遇したことで駆除されることになったというわけだ。
もし、自分たちがわざわざキャンプ場の中心地から離れなければ.、あるいはあのときキャンパーの忠告を素直に聞いていれば、美弥子は熊と遭遇する恐怖を味わわずに済み、熊も射殺されずに済んだかもしれない。そう思うと美弥子の心は、後悔と罪悪感でいっぱいになった。竜也の方も同じように複雑な気持ちを抱いていたらしく、気落ちしているように見えた。
環境ボランティア「ねぇ、あなた。いろいろ考えたんだけど、今度2人でこういうの参加してみない?」
「環境ボランティア……? へぇー、面白そうだな! ちょうど僕も自然や野生動物のために何かしたいと思ってたんだ」
美弥子が竜也に見せたのは、『人と自然が共存できる社会を目指すボランティア 参加者募集』という文言が表示されたスマホの画面だった。
ボランティア活動のホームページを食い入るように見ている竜也の姿を見て、美弥子はキャンプをきっかけに抱いたネガティブな感情がゆっくりと薄らいでいくのを感じていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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