「トイレに100円払うのか?」理解できないことに金を払わず、登山具に8万円使う「夫に起こった異変」
Finasee / 2024年9月18日 17時0分
Finasee(フィナシー)
冷えたビールを喉に流し込んで、洋祐は大きく息を吐き出した。
仕事から家に帰ってきて1杯目に飲むビールは毎回格別だ。特に今年は猛暑なのでさらに味がうまくなったような気がする。そんな洋祐の様子を見て、世那はあきれたように笑っている。
「毎回毎回、そんなおいしいもんなの?」
「ああ、もう、この1杯のために、仕事をしていると言っても過言じゃないね」
「いや、どう考えても過言でしょ」
世那の突っ込みを無視して、洋祐は一気にコップのビールを飲み干した。
ビールを飲みながら世那と一緒に夕飯を食べる。結婚して10年以上たつが、一緒に夕飯を食べるというルールだけは変わらずに守り続けている。
「ねえ、今度の休みさ、何か予定あるの?」
洋祐がマグロの刺し身を味わっていると、唐突に世那が聞いてきた。
「いや、特にないけど」
「いつもさ、私が一緒に登山をしている曜子がね、妊娠してさ、しばらく登山できないって言われちゃったの」
世那の話を聞き、洋祐は目を見開いた。曜子と世那は大学の登山部で知り合い、卒業してからもちょくちょく登山をする仲だった。
「だからさ、一緒に登山する人がいなくなっちゃってね、洋祐にちょっと付き合ってほしいなって」
「1人ではやりたくないのか?」
「それは寂しいじゃん」
洋祐は目の前に並んだ刺し身を眺めながら少し考える。
「……いいよ、じゃあ俺も登山を始めようかな」
洋祐の言葉を聞き、世那は軽く手をたたいて喜んだ。
「ごめんね、ゴルフの予定があったら、そっちを優先してくれていいからね」
「……ゴルフもな、最近人が集まらなくなってたし」
洋祐は目をそらしてそう答えた。実際は違う。元々ゴルフが趣味だったのだが、最近はスコアが伸びず、熱量がなくなっていたのだ。ただ、勝手にクラブを買い替えて世那ともめたことがあった手前、なかなかやめるとは言い出せず、取りあえずごまかしておいた。
「じゃあ、さっそく今度の休みに道具を買いそろえようよ。私がアドバイスするからさ」
「ああ、そ、そうだな」
得意げに胸を張る世那に、洋祐は柔らかな苦笑を向けた。
登山デビュー2人は約束通り、日曜に大きなスポーツ用品店に行き、世那のアドバイスで道具をそろえていった。登山には三種の神器と呼ばれるものがあるということを教えられる。要はこの3つは必ず持っておきなさいという類いのものだ。
登山靴、ザック、レインウエア。
ザックとはリュックサックと同じようなものなのだが、登山用のものを持ったほうがいいと世那は話した。理由はリュックサックよりも体に密着することで重い荷物も持ちやすくなること、さらに登山用の道具を効率的に入れやすい構造になっているということだった。初心者の洋祐にはリュックサックとの違いは分からなかったが、素直に世那の指示を聞き、三種の神器と登山用のウエアやストックなども購入していく。途中で世那はデカい水筒をカゴに入れてきた。
「これ、いる? 向こうに自販機とかあるでしょ?」
世那は首を横に振る。
「ダメよ。しっかりと保冷もできる大容量のヤツを持っておかないと危ないから」
「ふーん、そうなんだ」
結局、総計8万円という費用が掛かってしまった。高いとは思ったが、これだけ道具がそろうと少しだけ登山に対するワクワクとした気持ちが生まれてきた。
それから1週間後、洋祐は初めての登山に挑むことになった。世那の薦めで最初に登るのは丹沢山。そこなら初心者でも本格的な登山が楽しめるというのが理由だった。
当日は車で向かい、駐車場に車を止めて外に出た。空気が重くねっとりとした暑さですぐに汗が噴き出してくる。こんなときに登山なんてよっぽどの物好きしかしないだろう。洋祐はザックを背負い、世那のあとをついていく。
「そんなに焦らなくていいから。きつくなったら、言ってね」
キビキビと指示してくる世那に洋祐はうなずく。
「なあ、上着、着たままじゃないとダメなのか?」
「ダメよ。上に行くと涼しくなるし、枝とかに引っかけてけがをすると危ないから。今は我慢して」
世那に否定され、洋祐は渋々受け入れる。
洋祐の横を、明らかに慣れた感じの登山客がどんどん追い越していく。その様子を見た洋祐は足に力を入れて、少しだけ歩を早め、世那よりも一歩前に出た。
「大丈夫、無理しなくていいんだよ?」
「いや、遅い方が逆にきついから。このペースがいい」
そこからは気持ち早めのペースで登山を進めて行く。毎日営業で外を歩き回っているからか、息が上がるようなキツさを感じることはなかった。
「スゴいね。初心者でこんなに歩けるのは、なかなかないと思うよ」
「ま、まあな。これくらいなら別にどうってことはない」
上に行けば行くほど、確かに空気が澄み、涼しさを感じるようになる。都会の騒がしさから離れて、歩くことに没頭する時間は確かに有意義なものだと洋祐も感じるようになった。
さらにしばらく歩き続けると開けた場所へと行き当たり、そこには山小屋カフェがあった。世那たちはそこで昼食を取ることにした。
クーラーの効いた店内で一息つくと、世那が顔をのぞき込んできた。
「大丈夫? 無理しないでね?」
世那から心配されていることにいら立ちを感じる。これくらいで音を上げるような男だと思われていることが癪(しゃく)に障った。
「大丈夫だよ。これくらい、何でもない」
「……そう。これからさらに日が昇って暑くなるから、水分補給も忘れないようにね」
「分かってるって……」
面倒くさそうに返事をして、そこから2人で昼食を取った。世那はそばを頼み、洋祐はカツサンドを注文する。
「そんなの食べて大丈夫?」
「しっかり食べないと、エネルギーにならないだろ?」
世那の心配をよそに、洋祐はあっという間にカツサンドを平らげた。再出発を前に、世那は洋祐に顔を向ける。
「トイレは行かなくて大丈夫? これからさきはあんまりトイレがないから、ここで済ませておいて」
「いや、今はいい。でももし、途中でしたくなったらどうするんだ?」
「用意してあるトイレに行ければいいけど、数も少ないし、混んでるとは思う。あと、トイレチップっていって100円払う必要もあるし……」
洋祐は顔をしかめる。
「トイレのために100円払うのか?」
「うん、まあ、トイレ設備の維持管理に使われるみたいよ」
「なんだそりゃ」
100円が高いとは思わない。ただ、理解できないことに金を払うのには抵抗がある。
できるだけトイレは使わないようにしよう。洋祐は飲もうと思って取り出した水筒を、そのままザックのなかへしまった。
頂上で感じた頭痛自然豊かな景色と初めての登山という高揚感もあって、あっという間に山頂に到着した。むしろあまりにもあっさり到着しすぎて、肩透かしを食らったような気分になる。
「ほら、良い景色でしょ?」
世那が指さす方向に目を向ける。確かに都内にいては、拝むことのできない景色だった。
しかし視界の隅が黒くにじんでいて、よく見えなかった。まるでピントのずれた望遠鏡で見ているようだった。さらに頭の奥にわずかな痛みを感じる。
「大丈夫? 何かあった?」
気付くと、世那がこちらに目を向けていた。
「……いや、別に。景色を見ているだけだよ」
「……そう? それじゃ少しだけ休憩して、下山しよっか。多分下山は3時間半くらいかかると思うから」
下山。世那の言うとおり、これがゴールではない。また戻らないといけないのだ。
「そうだな。そうしよう」
洋祐は歯を食いしばって、うなずいた。
●やせ我慢をしてしまった洋祐には、この先訪れる悪夢を予想できなかった……。後編【「もう少し早く音を上げていれば良かった」山道で動けなくなった夫が初秋にかかった「まさかの病名」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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