「もう少し早く音を上げていれば良かった」山道で動けなくなった夫…初秋に発覚した「まさかの病名」とは?
Finasee / 2024年9月18日 17時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
洋祐(35歳)は妻の世那に誘われて登山に初挑戦することになった。妻の趣味だったが、登山仲間の親友が妊娠をして登山に行かれなくなったのだ。
洋祐のためにそろえた登山道具は思いのほか8万円もかかったが、その分当日が楽しみに思えた洋祐だった。
いよいよ登山デビューの日、歩くペースなどを気遣われながら洋祐は登っていく。途中休憩の山小屋カフェで昼食を取った後、頂上にたどり着く。そこで洋祐は視界の狭さと頭痛を感じたが、妻には伝えずに下山へと出発してしまった。
●前編:「トイレに100円払うのか?」理解できないことに金を払わず、登山具に8万円使う「夫に起こった異変」
視界がどんどん狭くなっていくベンチで休憩をしながら、世那に気付かれないように大きく息を吸って吐いてを繰り返す。しかし空気が全く体に入っていく気がしない。肺の容量が半分になったのかと錯覚するほどだ。それでも、息を整えようと気持ちを落ち着かせる。このような状況の場合、慌てるのが1番、危ないのだ。ここで変に騒ぎを起こしたところで、どうすることもできない。まずは山を下りなければ、何もすることはできないのだ。
「じゃあ、行こっか」
そう言って、世那が立ち上がった。まだ早いと言いたかったが、そんなことを口にしてしまうと、負けたような気持ちになる。手の力を使って勢いよく体を立ち上がらせる。
頭が鉄球でもつけているのかと思うほど、重たい。視界はどんどん隅が黒くなっていて、ほぼ正面しか見えなくなっていた。世那がこちらに向かって何か話している。目の前にいるのに、声があまりにも遠い。下山の道順を説明してくれていたようだが、一切頭には入ってこなかった。
救助の要請何とか自分をごまかしつつ下山し続けていたが、胃の中から物体がせり上がってくるような気持ち悪さをずっと感じていた。昼食にカツサンドなんて食べなければよかったと後悔した。どこかで吐ければ回復するのだろうが、そんな醜態を世那や他の登山客には見せられない。とにかく弱っているところを人に見せるわけにはいかなかった。
そんな意地で歩き続けていると、ふいに世那がこちらを振り返った。
「すごく順調だよ。このままだとあと2時間で、下りられると思うから」
今まで遠くでしか聞こえてなかったのに、その言葉だけははっきりと洋祐の耳に届いた。
半分以上は歩いた気持ちになっていたが、まだあと2時間も残っているのか。この瞬間、洋祐の中の何かが切れた。目の前の景色がぐるぐると回り出し、洋祐はその場に座り込んだ。
「え、ちょ、ちょっと、ここ座るところじゃないよ?」
そんなのは百も承知だと言い返したかった。しかし体が言うことを聞かない。このまま寝そべりたい衝動を堪えるのだけで精いっぱいだった。
「何、つらいの? どうかしたの?」
頼むから静かにしてほしかった。会話をできる状態じゃないと分かってほしかった。洋祐はその気持ちを表すために、首をゆっくり2度横に振った。洋祐の反応を見て、世那は目の前に膝立ちになり、リュックサックから水筒を取り出す。
「取りあえず飲んで」
出された水を洋祐はゆっくりと飲む。そこで大きく息を吐き出すと、幾分かマシな気持ちになった。しかし体は地面に磁石でくっついたように動こうとはしない。
世那は携帯の地図で何かを確認している。
「もう少し下りたら、山小屋があるんだけどな。ど、どうしようかな……」
すると1人の年配の男がこちらに近づいてきた。
「どうかしましたか? 体調が優れないようですが?」
「ええ、突然座り込んじゃって。休憩して様子を見ようとは思ってるんですけど」
「いや、すぐに救助隊を呼びましょう。取り返しのつかないことになるかもしれません
「え、で、でも……」
男の声はしっかりと洋祐の耳にも届いていて、取り返しのつかないことという単語をしっかりと受け止めていた。もう少し早く音を上げていれば良かった。いや、山頂で異変に気付いていたのだから、しっかりと休憩をしようと世那に提案すれば良かったのだ。強がっていた山頂での自分をしかりつけたかった。しかし、感情とは裏腹に体は全く動こうとしない。
困惑する世那に男が冷静に話を続けている。
「私が山小屋に行って、救助を要請しましょう。あなたは引き続き、彼を見守っておいてください」
「い、いいんですか⁉」
「もちろん。どうせ道中で寄ろうと思ってたのでね」
すると、男は俺の肩に手をのせる。
「気をしっかり持ちなさい。必ず助けは来るから」
男の言葉に洋祐はうなずく。前だったら、なめるなとかそんな感情が生まれていたと思うが、今は、そんなことを思う気力すらない。
「ほら、ここに寝て」
洋祐は言われるがまま、世那が敷いたシートの上に横になる。寝転がるとつらさが軽減された。鼻先をかすめていく風が、とても涼しくて心地よかった。
「どう、気分は?」
わりと良くなったという意味で洋祐はうなずく。まだしゃべるだけの気力はなかったが、世那の心遣いがだるい身体に染みわたった。
原因は熱中症そのまま休んでいると山岳救助隊が到着した。世那は救助隊の人たちに事情と処置の内容を説明する。洋祐も救助隊から幾つか質問をされ、それにうなずいて答えた。隊員はテキパキと準備をして、洋祐を背負う。
単なるおんぶではなく、ザックのショルダーストラップのところに洋祐の足を入れる。そうしてザックを背負うと、本来なら洋祐の体を支える手の役割をザックがしてくれるので、隊員の手が空き、担ぐときの負担を軽減することができる。とはいえ、このまま下山するというのが大変なのには変わりがない。
「こ、このまま下りるんですか?」
世那が心配そうに質問すると、隊員が朗らかな声で説明をする。
「いえ、近くにケーブルカーがありますので、それで下山します。麓には救急車が待機していますので、そこから病院に向かってもらいます」
そう言って隊員たちは進み出した。
世那はちらちらと洋祐を確認しながら歩いた。思いのほか早くケーブルカーに到着し、そのまま麓へと最速で下りた。麓に下りてからは、すぐに救急車に乗せられて病院で診察を受けた。診断の結果は熱中症ということで、点滴を受けて休んだ。入院とまではいかなかったが、適切な処置がされていなければ命の危険すらあったらしい。慣れない山道で思いのほか体力を消耗したことはもちろん。トイレを気にして水分を最低限しか取らずにいたことも、熱中症の引き金になったらしい。
幸い、病院から帰ったあと自宅のベッドで一晩中眠り続けた洋祐は、翌日には無事に回復した。ベッドから起き上がり、リビングに行くと、世那が驚いた顔をする。
「ちょ、ちょっと、まだ寝てないと!」
「いや、だいぶ良くなったよ」
洋祐はそう言いながら、テーブルに座る。
「何か、食べられそう?」
「いや、どうだろうな……」
「……明日の仕事だけどさ」
世那がおずおずと話し出したので、洋祐はすぐに答える。
「明日は休むよ。ちょっとまだ無理はできないから」
洋祐の言葉を聞き、世那は胸をなで下ろす。
「うん、絶対それがいい」
無理して多くの人に心配や迷惑をかけるのは良くない。そのことを嫌というほど、学んだ。
無理なものは無理だと言っていいんだと分かったことで、これまでずっと背負い続けていた肩の荷が下りたような気がした。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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