「俺たち、やり直さないか?」宝くじで激変したアラフィフ男性…復縁を迫った元妻に下された「無慈悲な決断」
Finasee / 2024年10月18日 17時0分
Finasee(フィナシー)
品のある所作のウエーターがワインを注いでいく。まだ波打っている深紅を一息に胃のなかへ流し込む。秋田丈秀は、立ち去ろうとしたウエーターを呼び止めておかわりを要求した。
3カ月前、丈秀は気まぐれに買った宝くじに当選した。その額は、なんと1等の2億円。今年で46歳になる丈秀が定年までの残りの時間、運送会社の配達員として稼ぐ金額をゆうに超え、生涯年収に匹敵する大金を手にしたことで丈秀の世界は180度変わった。
まず、夏は汗をかきながら、冬は寒さに凍えながら、来る日も来る日もハンドルを握るのがばからしくなって仕事を辞めた。そもそも配達員という職業は理不尽にさらされている。時間通りに正しく荷物を届けるのが当然で、わずかにでも遅れればクレームを入れられる。待っていた客に面と向かって詰められたり、小言を言われるようなことだって少なくはない。
だから辞めてやった。担当エリアには穴をあけることになり、センター長は頭をかいていたが、代わりはいくらでもいる仕事だ。それに、理不尽な客が予定通り届かない荷物に困るのならいい気味だとさえ思った。
しかしこれまで人生の時間の大半を使っていた仕事がなくなってみると、丈秀の毎日は思いのほか暇だった。だから丈秀はこれまでいろいろな理不尽に耐えてきた分、少しくらい羽目を外してもばちは当たらないだろうと考えた。表参道へ足を運び、カタカナばかりで読みづらい高級ブランドの服を端から買って身なりを整え、エンジンの調子が悪かった古いセダンを処分して、高級外車を買った。毎日のように銀座や麻布のクラブや高級レストランで飲み食いをした。
離婚して以来10年会っていない妻子年の割りに老けて見えることがコンプレックスでもあった丈秀は、1着50万もするジャケットに袖を通すことで自分が大きくなったように思った。
もう何もかもがかつての惨めな自分とは違うのだと思えた。だがどれだけ腹が膨れても、減らない札束の山を眺めても、丈秀が満ち足りることはなかった。むしろ渇きすら感じていた。壊れた瓶にいくら水を注いでも満たされることがないように、あるいは甘ったるい飲み物を飲むと余計に喉が渇くように、丈秀は満足を得ることができなかった。
その日も麻布の高級フレンチでコース料理を食べ、現金で会計を済ませて店を出る。夜の暗さのなかでもいっそう黒く光る車に乗り、帰路に就く。首都高を走りながら、運送トラックを追い抜いていく。ハンドルを握る手に、思わず力が込められる。間もなく丈秀はベイブリッジに差し掛かった。昔はよく通ったものだと、ふいに懐かしい気分に駆られた。ベイブリッジを渡るとき、息子は決まって窓を開け、車内に吹き込んでくる潮の匂いがする風に楽しげな声を上げていた。妻は髪がぼさぼさになるじゃないと冗談めかして嫌がり、丈秀は息子を少しでも喜ばせたくて車のスピードを上げた。幸せだったころの懐かしい思い出だった。
だがいつしか妻とはケンカが絶えなくなり、言い争いの末に丈秀が手を上げたことが決定打になって出て行った。
あれから10年。離婚したきり会っていない息子はもう、今年で高校を卒業する年になる。あいつらは2人でうまくやっているのだろうか。金のことで苦労したりしていないだろうか。もしかしたら今の自分なら、2人を幸せにしてやれるのではないか。
丈秀は車を走らせる。開けた窓から流れ込む風は、丈秀の背中を押すように力強く吹いていた。
1000円札の重みこれまでろくに払っていなかった養育費をまとめて払いたいと、妻の良子に連絡したのはその月の半ばのことだった。良子は2日後に振込先と合わせて連絡を返してきたが、丈秀は直接渡したいと譲らなかった。
丈秀が、しぶしぶ折れた良子に指定されたコーヒーチェーン店に着いたのは待ち合わせ時間の30分前だった。本当ならば高級ホテルのバーラウンジなどが再会場所としては好ましいと思っていたが、良子はこのあとパートに出なけばいけないと言っていたので仕方がなかった。
良子は待ち合わせの5分前にやってきた。入店音に反応した丈秀は良子に向けて手を上げる。丈秀を見つけた良子は眉をひそめていたが、丈秀だと気づくやすぐに席へとやってきた。
「久しぶり。なんか、雰囲気変わったわね」
「まあ、いろいろあってな。おいおい話すよ」
丈秀は良子の分のカフェオレと、自分の分の二杯目のコーヒーを注文した。良子はよほど連絡がうれしかったのか、あるいは金に困っているのか、カフェオレが運ばれてくるよりも先に話を切り出した。
「それで、養育費のことだけど」
丈秀はかばんから茶封筒を取り出した。10年分の養育費と延滞料金として上乗せした丈秀の気持ちは全部で700万円におよび、茶封筒をいびつなかたちに膨らめていた。
しかし机の上に差し出された封筒を、良子はすぐに受け取らず、じっと見ていた。
「これ、一体どういうお金? まさかとは思うけど、なんか危ない仕事してるんじゃないでしょうね? そんなお金なら受け取れ――」
「違うよ。当たったんだ、宝くじ」
丈秀は良子の言葉を遮った。良子はますますけげんそうに顔をしかめていた。
「宝くじって、あの宝くじ?」
「そう。2億円」
「は? に、2億⁉」
慌てて潜めた声には驚きと色めき立つような感情がにじんでいるのが感じられた。丈秀はここだ、と思った。
「だから俺たち、やり直さないか? もうお前にも武彦にも苦労はかけない。仕事は辞めたから、家事だってちゃんと手伝うよ」
しかし丈秀が口にした途端、良子の表情から感情が抜け落ちていった。目は鋭く細められ、真っすぐに丈秀を映している。
「それ、本気?」
「当たり前だろ。冗談でこんなこと言わないよ。俺はお前ともう一度やり直したいんだ」
丈秀はテーブルの下でこぶしを握っていた。こんなに緊張するのはプロポーズしたとき以来だった。
やがて良子は短く息を吐き、口元を緩めた。丈秀も内心で一息ついたが、良子の続く言葉は丈秀の想像とは違っていた。
「何考えてんの? はいそうですねって納得するとでも思ってる? バカにしないでよ。あんたと別れて、私と武彦がどれだけ苦労してきたと思ってんのよ。それにね、私、とっくに再婚してるの。あんたとやり直す可能性なんてこれっぽっちもないわ」
「な……」
丈秀は言葉が出なかった。まるで時間が止まったように固まっていたが、天井で回っている大きなプロペラファンは静かにゆっくりと回転を続けていた。
「このお金も、そういうつもりのお金なら結構です。そうやって見栄えだけ強そうに取り繕ってもさ、あなた、結局なんにも変わってないわよ」
良子は財布から1000円札を抜き取ると、机の上に置いて立ち上がった。丈秀は呼び止めることもできず、あっという間に立ち去っていく良子をただ見送った。
間もなく、コーヒーとカフェオレが運ばれてくる。丈秀はぼんやりと座ったまま、机に置かれた1000円札の重みに動くことができなかった。
●唯一の希望に思えた元妻とも決裂してしまった。丈秀は人生に幸せを見いだせるのだろうか。 後編【「金だけあっても使い道なくて」宝くじ高額当選も妻子に逃げられ…人生の希望を託した「子供食堂への願い」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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