飲み会を断ったら退職に追い込まれ…肩身の狭い“撮り鉄” 30代男性に襲い掛かった「つらすぎる追い打ち」
Finasee / 2024年10月25日 17時0分
Finasee(フィナシー)
車窓から見える景色もそこそこに、優太はボックスシートにからだを沈めて目を閉じた。穏やかな車内に響く走行音。シート越しにからだに伝わる振動。線路と車輪が嚙み合い、ひたすらに前へ前へと進んでいく頼もしさ。そのひとつひとつが優太の心を高揚させていた。
旅の目的は鉄道撮影。優太は、いわゆる“撮り鉄”だった。
今回のお目当ては、全国屈指の秘境路線であるJR只見線の車両。福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶJR只見線は、秋になると紅葉に染まった山々が列車を包み込み、幻想的な美しさを作り出すことで知られている。鉄道好きとしては、その風光明媚(めいび)な光景をなんとしてもカメラに収めなければいけないと、前々から思っていた。
まぶたの裏側で、赤く染まった山あいを走る只見線を思い浮かべる。きっとこの目でじかに見る光景は、これまでに見てきた他の人の撮影した写真や、自分の想像なんてはるかに超える美しさに違いない。
――ガシャン
ふいに大きな音がして優太の想像はかき消えた。代わりに鋭い怒鳴り声が頭のなかで暴れまわり、陰湿な舌打ちが背筋をなでた。心臓が早鐘を打ち、全身から汗が噴き出していた。一拍遅れて子どもの泣き声が車内に響く。その子どもをあやす母親らしき女性の声も聞こえる。
大丈夫、大丈夫だ。心のなかでそう繰り返し言い聞かせたものの、汗も脈もなかなか収まってはくれなかった。
最近まで働いていた中堅の電子部品メーカーを退職したのは先月末のこと。いや、正しくは、退職に追い込まれたと言ったほうがいいのかもしれない。優太は営業二課で、主に白物家電の部品営業を担当していた。目ざましい成果をあげているわけではなかったが、堅実かつ丁寧に仕事をこなしていたと自分では思っている。社内外の人間関係も、給料などの待遇にも不満はなく、会社がつぶれない限りはこのまま定年まで勤めあげるのだろうと、そんなことを漠然と考えていた。
しかし半年前、地方支社から異動してきた新しい課長によって事態は一変した。きっかけは、優太が想像するに、業務後の飲み会や土日のゴルフを断り続けたことだったと思う。家に帰ってYouTubeを眺めたり、鉄道模型を組み立てたりするために、仕事は仕事として、はっきりとした線引きをして業務にあたっていた。
しかし、そんな態度が気に食わなかったのだろう。課長はささいなミスを見つけてきては優太をしかり、大勢の前で怒鳴りつけた。これまで懇意にしていた取引先は、後輩育成の名目で担当から外され、無理難題な新規営業ばかりを押し付けられた。会議では優太が意見を述べるたびに「浅いね」の一言で一蹴され、自尊心をそがれていく日々が続いた。
課内の同僚たちに相談しようにも、逆らえば次は自分かもしれないという恐怖は、結果として優太を孤立させた。職場にいるだけで強いストレスを感じるようになり、会社に出勤することができなくなった。優太の悲惨な状況は、休職とともに社内に広く知れ渡ることになり、課長のパワハラは大きな問題になった。
だが、課長が降格処分になり、会社のコンプライアンスがいくら改善されようとも、心に負った傷は取り返しがつかない。
優太は大きな物音を聞くと課長の怒鳴り声がフラッシュバックし、胸の奥を踏みつけられるような苦しさに襲われるし、スーツを着ようとネクタイを締めると激しい吐き気を催すようになっていた。ひどい時は、コンビニやすれ違う通行人すら、敵であるように感じられて、外に出ることすらできなくなった。
これ以上この会社で働き続けるのは限界だと悟った優太は、思い切って会社を辞めた。2カ月ほど通院しながら自宅で療養し、ようやく気分が上向きになってきたところで思い立ったのが、鈍行を乗り継ぐ鉄道旅だった。
世間の評価は優しくない列車を下りて気分を落ち着かせた優太は、ホームの端に三脚を置きカメラを構えていた。腕時計で時間を確認しつつ、何度も画角などを調整する。
まだ今回の旅の目的であるJR只見線ではなかったが、この駅にはもうすぐ貨物列車が到着する予定だった。コンテナを積み、鋼鉄の蛇のように連なる貨物列車は、小さいころに鉄道にはまったきっかけでもあり、今でも最も好きな列車だ。言うまでもなく、優太の気分は高揚していた。加えて、周囲に他の撮り鉄がいないことも、すがすがしい気分を優太に与えた。今この場所は、優太ただ1人が独占しているも同然だった。
「危ないから下がって」
集中して画角を調整していたせいか、肩をたたかれるまで駅員に声を掛けられていることに気が付かなかった。優太は慌てて謝り、言われた通り後ろに下がった。カメラの位置を再調整する優太の横顔に、ホームで列車を待つ人たちの冷たい視線が向けられる。大した人の数ではなかったが、まとわりつく視線は重く鋭い。優太は思わず背中を丸め、息を潜めた。
鉄道をこよなく愛する撮り鉄だが、その実、現場での肩身は思いのほか狭い。駅員の注意に逆切れしたとか、線路内に立ち入って撮影をしたとか、三脚禁止の場所で三脚を立てて撮影しようとしたとか、“撮り鉄”の迷惑行為は、たびたびニュースなどでも取りざたされる。もちろんそんなことをするのは一部の人間だけであって、優太をはじめとするたいていの鉄道ファンはつつましく、誰の迷惑にもならないよう、純粋に鉄道の撮影を楽しんでいるだけだ。
しかし世の中の評価というのは、水のように低いほうへと流れるようにできているらしく、たった今駅員から注意を受けたときのように、ふと目立ってしまった瞬間に向けられる視線の冷たさや風当たりは、決して優しいものではなかった。
優太は鼓動が再び早くなり始めるのを感じ、深呼吸を繰り返した。間もなくやってくるであろう貨物列車を思い浮かべ、職場での出来事がフラッシュバックしそうになるのを抑え込む。
やがて貨物列車の重厚な走行音が遠くから響くと、優太は気を持ち直すことができた。ホームに進入しようとする貨物列車の力強いフォルムを前に、夢中でシャッターを切った。
レンズ越しに列車と相対している間は、周囲の音が耳に入らない。そこはまさに自分だけの世界だ。久しぶりに感じる高揚感が身体全体に広がっていった。
荷物がない!呼吸すら忘れて撮影をしていた優太は、貨物列車が見えなくなるまで見送ってから、旅を再開しようと振り返る。しかし目の前に広がっていた想定外の光景に、優太の頭はすぐに事態をのみ込むことができなかった。
「え……リュックサックが、ない?」
思わず口に出してしまった通り、ベンチに置いておいたはずの荷物が丸ごと消えていた。
優太は辺りを見回した。しかしまるで最初からそこには何もなかったかのように、荷物はどこにも見当たらない。
「やられた……」
優太は頭を抱えた。ベンチの上の掲示板には、ながらスマホ防止のポスターと並んで、置引注意喚起のポスターが貼ってあった。
一体自分は、何をしているのだろうか。
職場では厄介な上司から目をつけられ、尻尾を巻いて辞めた。家族や友人の心配をよそにふさぎ込み、気分転換を大義にこんな田舎まで逃げてきた。その上、自分の荷物の管理すらままならない。
優太は三脚を抱えたまま、その場に立ち尽くす。仕事もせず、引きこもっていた自分には分不相応な旅だった。だからこんな目に遭うのだ。もう帰ろうと思った。しかし思った矢先、財布もリュックサックの中だったことに気づいた。
風が冷たく吹き抜け、葉擦れの音が優太をあざ笑うように騒いでいた。
●帰るあてすらなく無くなってしまった……。そんな優太にさらに「思ってもみない事態」が降りかかる。 後編【パワハラに置引…災難続きの“撮り鉄”男性が駅のトラブルで気づかされた「忘れていた気持ち」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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