「母は結婚相手を間違えた」過去のあやまちで一人娘と疎遠になった父親が「毎年娘に送るもの」
Finasee / 2024年10月28日 17時0分
Finasee(フィナシー)
スマホが震えた。休日、夕方のニュースを見ていた明里が画面を見ると、5歳年上の兄・康之の名前が表示されていた。
明里はスマホを耳に当てる。あまり気は乗らなかった。
「……もしもし、何?」
「おお、米なんだけど、届いた?」
明里は思い出したようにキッチンへと目を向ける。キッチンには午前中に届いた5キロ分の米袋が段ボールから出されたまま置いてある。あとで米櫃(こめびつ)に入れようと思っていて、すっかり忘れていた。
「うん、届いたよ」
「今年は自信作だって、父さんが言ってたぞ」
「ふーん」
毎年、10月ぐらいになると父の泰司から康之を経由して、お手製の米が送られてくる。今年70歳になる父はプロフェッショナルな農家というわけではなく、定年後に気まぐれで田んぼを借りて米作りを始めたにすぎない。しかし今年はとくに、米不足で少し前まではスーパーからこぞって米がなくなっていたので、ありがたいと言えばありがたかい。米がないならパンや麺を食べればいいのだが、それでもやはり日本人だからか、米を食べなくては満足できない瞬間というのがたまにある。
しかし明里からしてみれば、こんなものは薄ら寒い罪滅ぼしにしか感じられなかった。たとえば、昔、米が税金として納められていたように、父もまた自らの過去の行いを悔い改め、こうして自分に米を送ってきているのだと。
「年なのにさ、毎日畑に出て、ちゃんと雑草を取ったりして、精魂込めて作ったお米だから、そりゃあおいしいよな」
楽しそうに話す康之の声は、明里の胸の内側に粗いやすりをかけたようなざらつきを生む。昔は同じ感情を――父へ嫌悪と憎しみを抱いているのだと思っていた。しかし、康之は結婚して父と一緒に住むようになってから、いつの間にか過去のわだかまりなんてなかったように、父と接するようになっていた。
「東京は、まだスーパーとかに米並んでないんだろう? 助かるよな。父さんの米作りがこんなかたちで役立つなんてな」
「……まあ、そうだね」
米不足のピークは8~9月で、もうだいぶ陳列棚のにぎわいは戻りつつある。だが、早く電話を終えたかったので、わざわざ康之の認識を正そうとは思わなかった。
「それじゃあ、忙しいから、また――」
「いや忙しいって、今日日曜だぞ? まだこっちの話、終わってないって。今年の年末はどうするつもり? 実家には帰ってこられそうか?」
「いや、どうだろうね。こっちも仕事がいろいろと忙しいからさ、12月くらいにならないとどうなるか分からないや」
明里はため息を吐く代わりに、てきとうなうそを吐く。明里の勤め先はその業界では大手にあたる会社で、福利厚生もしっかりしている。明里の今の部署はほとんど残業もないし、有給だってむしろ会社から取ってくれと頼まれるくらいだ。もちろん、年末年始の長期休暇だってしっかり取れる。
「そうかぁ。昔は年末年始の休みがあったのに、大変だなぁ」
「まあね。じゃあほんとに忙しいから、切るね」
明里は電話を切った。テレビの天気予報が告げる通り、部屋のなかも少し肌寒い気がした。
兄のようにはならない放課後に友達と遊んで帰ってきた明里は、家族で暮らしているアパートの前に大型トラックが止まっているたび、ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握った。大型トラックは父が帰ってきている証拠だった。2階に上がって薄いベニヤ扉の前に立つと、普段は聞こえない野球中継の音が漏れてくる。「だぁーっ! なぁにやってんだ! ど真ん中じゃねえかっ!」怒鳴り声とともに、机をたたく音がする。明里は深く吸った息を止めて、玄関扉を開けた。
父は長距離トラックの運転手で、家を空けていることが多かった。だから兄は、小学校に上がって父の仕事のことをなんとなく理解するまで、自分の家には父親がいないと思っていたそうだ。
だがこんな父親なら、いないほうがましだったと明里は思う。父が帰ってくるのは、決まってスロットで負けて金を無心しにくるときだった。そして母が金はないと言うと、暴れた。古いアパートの壁にいくつもカレンダーが下がっていたり、ポスターが貼ってあるのは、すべて父のげんこつが壁にあけた穴を隠すためだった。
中学生のとき、明里は母に、どうしてあんな男と結婚したのかと聞いたことがある。母は「どうしてだろうね。あんなろくでもない男だけど、悪いとこばかりじゃないんだよ」と困ったように笑った。あの男にいいところがあるとは思えなかったが、母はそれ以上、話そうとはしなかった。明里は今でも、母は結婚相手を間違えたと思っている。苦労をかけられ続け、そのせいで若くして死ななければならなかった。ぜんぶ父のせいだった。
母は明里が高校2年生のときに病気で亡くなった。血液のがんだった。明里が高校に上がったころから入退院を繰り返した。明里と康之は2人でやせ細った母の最期をみとった。父は来なかった。
以来、明里は父と口を利かなくなった。残り1年の高校生活をやり過ごし、卒業と同時に地元を離れて東京へと出てきた。夏のお盆も、年末年始も、ほとんど実家には戻らなかった。
だから今年も、帰省するつもりはなかった。苦労をかけて母の命をむしばんだ父のように、父の罪を忘れて何事もなかったかのように家族を演じる兄のようにはならないと決めていた。
家族ごっこを終わらせてやるしかしそれから2週間がたって、兄からまた電話がかかってきた。
「父さんが、ぎっくり腰になったんだ」
「へえ、そうなんだ」
開口一番、深刻そうに言った康之に明里は生返事を返した。スマホの向こう側で、康之が髪をかいているのが想像できた。
「そうなんだ、ってさぁ。家族なんだから。もし都合つくなら、明里にも見舞いに来てほしいんだけど……」
「見舞いって、ただのぎっくり腰でしょ。死ぬわけでもあるまいし、嫌だよ」
「そうだけど、父さんぎっくり腰のせいで気落ちしてるんだうよ。医者に米作りみたいな重労働は止められててさ。まあ、今は稲刈りしたばっかでそんなやることもないんだろうけど」
「別に、辞めたらいいじゃない。趣味でやってるだけなんだから」
明里の口調には思わず力がこもった。
「今の父さんにとっては、生きがいなんだよ。金と手間がかかるけど、生き生きしてやってるし」
ばかみたい、と思ったが言わなかった。
父が米作りを始めたと聞いたとき、そんなことができるのかと驚いて調べたことがある。田んぼを借りる費用が年間12万円前後、苗や肥料にも年間で数万円程度かかり、脱穀機などの備品や機材をそろえれば20~30万円。初期費用にして50万もあれば始められるのだろうが、父は別に米を売っているわけではないから、出ていった経費が取り戻されることはない。いかにも老後の道楽といった感じだ。
「明里さ、休み取って実家に帰ってきてくれないか? 多分、明里の顔を見たら父さんも元気が出ると思うんだよ。いや、驚いてまたぎっくり腰になるかもな」
「だめじゃん」
「でもそうなったら、米作りに諦めがつくかもしれない」
康之はけらけらと笑っていたが、明里は面白いとは思わなかったし、むしろいら立っていた。
「やっぱりさ、父さんには元気で長生きしてもらいたいだろ」
そんなわけがない。母から吸い上げた命で生きながらえるくらいなら、今すぐにでも消えてほしかった。
もう、この家族は終わりだ。いや、母が死んだときに、とっくに終わっていた。だとすればこのしらじらしい家族ごっこを徹底的に壊し、終わらせてやるのは、自分の役目かもしれないと思った。
「……分かった。顔だけ出すよ」
明里が返答すると、康之は子どもみたいに声を明るくして喜んだ。ひょっとすると康之は、おめでたい頭で、わだかまりが解けたとか思っているのかもしれない。
だが、帰省はこれが最後だ。あの地元に、もう明里が帰るべき場所はない。あるいは明里を出迎えてくれる、家族なんて幻想ももうなかった。
●明里と父のわだかまりが解けることはもう無いのだろうか? 久しぶりに帰省した実家で15年前の事実を知った明里は……。 後編【「あの日、何で来なかったの?」苦労の末に亡くなった母…ダメな父親が15年間たった一人で続けた「罪滅ぼし」とは】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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