「思わず耳を疑った」家族のために“FIRE”をした男性の誤算…突然仕事を辞めた35歳息子からの「仰天の申し出」
Finasee / 2024年11月5日 17時0分
Finasee(フィナシー)
秋の日差しが柔らかく降り注ぐ中、憲二は京都の古寺を訪れていた。
そっと境内に足を踏み入れると、全身がどこかひんやりとした静寂に包まれるのが分かった。都会の騒がしさから切り離された清閑な空間は、まさしく別世界。厳かにたたずむ本堂、時折聞こえる鳥のさえずり、敷き詰められた砂利を踏みしめる感触ーー。五感を通じて伝わるもの全てが心地よく、まるでこの寺が憲二を歓迎してくれているかのように感じられた。
ゆっくりと深呼吸をした後、憲二は本堂に安置されている仏像や仏画などを見て回った。
「これは見事だ……」
本堂から見える庭園に思わず感嘆の声を漏らした憲二は、気ままな1人旅の真っ最中だ。人生の大半を仕事にささげてきた憲二だが、6年前に早期退職を果たして以来、隠居生活を満喫しているのだ。
憲二が自身の老後について考え始めたのは、40代に入るころ。長年勤めてきた会社でのキャリアは安定していたが、忙しさの中で家族との時間が減り、将来の自由な生活に対する憧れが強まっていったのだ。そこで憲二は、アーリーリタイア、いわゆるFIREの目標を立てた。
まずは、貯蓄率を高めるべく、毎月の収支を徹底的に見直し、不要な支出を削減し、次に資産運用を本格的に始めた。
超低金利時代の現代、資産を銀行に預けるだけでは、早期退職など夢のまた夢。憲二は金融商品の知識を学んで、投資信託や株式を中心に分散投資を行った。常に市場の動向に注意しながら、リスクを抑えつつも長期的な視点で運用を続けた。その努力が実り、50代半ばには目標とする6000万円以上の資産を築くことができた。
そして、憲二は60歳を迎える前に会社を退職し、念願の自由な時間を手に入れたのだった。
最近は、主に神社仏閣を巡る旅に出ることが多い。いにしえの歴史に触れ、心の静けさを得ることは、忙しかった現役時代には手に入らなかったぜいたくだった。今の憲二にとって、この静かで穏やかな時間は何よりの安らぎだ。
妻の直美も、新しい生活スタイルに理解を示してくれているが、残念ながら憲二と一緒に旅に出ることは少ない。長年専業主婦として家庭を守り続けてくれた直美は、家を離れるのがおっくうだと言う。
FIREをしたら、まずは直美が行きたい場所を一緒に巡ろうと考えていたから、憲二は多少なりともショックを受けた。恋人同士だった若いころには、少しでも休みがあれば2人で旅行に出掛けたものだが、結婚して子供が生まれてからは、その機会も徐々に失われていった。憲二が家族のために、ますます仕事に没頭するようになったからだ。
しかし、“家族のため”に頑張れば頑張るほど、皮肉にも憲二は家庭から遠ざかった。その現状を打破しようと達成したはずのFIREだったが、退職後も家族と過ごす時間は思うように持てていない。
これはきっと、家族との時間をないがしろにしてきた憲二への報いなのだろう。
憲二は思わず口を突いたため息を濁すように立ち上がり、スマホを構えて風光明媚(めいび)な庭園をスマホで写真に収めた。
専門学校の学費を出してほしい「昌ちゃん、うちに帰ってくるって」
夕食の片付けをしている直美が唐突にそう切り出したとき、憲二は思わず晩酌の缶チューハイを吹き出しそうになった。
息子の昌一は大阪の会社で働いている。盆や正月くらいには実家に顔を出すこともあるものの、連絡を取り合うことはほとんどない。今年で35歳になるのでそろそろ結婚の報告でもしてこないものかと思っていたが、変にプレッシャーを与えて疎まれるのもいやなので黙っている。
「……帰ってくるって何で?」
「なんか仕事辞めたんだって。ほら、けっこう残業とかも忙しかったみたいだし、少し休みたいんだと思う」
「そうか」
少し前の憲二なら、軟弱だ、と思っていただろう。しかし仕事は人生のなかばでいつかは辞めることになる。仕事に励むことももちろん大事だが、仕事はあくまで人生の一部。早めのリタイアでどこか空虚さをぬぐえない自由を手にした憲二は、そう考えを改めていた。
それから間もなく、昌一は大阪で借りていたワンルームマンションを引き払い、実家に戻ってきた。記憶よりも幾分か太った姿に驚きつつ、憲二は疲れ切った表情の昌一が前の明るさを取り戻せるようになるのを待った。
しかし1カ月たっても、2カ月たっても、状況は進展しなかった。
息子は毎日昼まで眠り、日中ふらふらと出掛けたかと思えば、夜中はずっとゲームざんまい。もちろん転職活動を始めるようなそぶりはなく、直美が作った料理を食べ、寝て起きるだけの自堕落な生活を送った。
憲二は次第にいら立ちを覚えるようになっていった。憲二が昌一くらいの年齢のころには、家族を養うために必死に働いていたのに、昌一は何の目的も持たず、ただ時間を浪費しているように見えてならなかった。
「なあ、昌一。そろそろ転職活動とかしたらどうなんだ? 休むのも大事だが、いつまでもこのままってわけにもいかないだろう」
「んー、まあ、うん」
それとなく聞いてみても、昌一の受け答えは判然としなかった。直美にも相談してみたが「疲れてるんだから休ませてあげようよ」の一点張りで話にならなかった。
そんな調子で半年近くが過ぎようとしていたある日、昌一が唐突に言い出した。
「俺、時計の修理士になろうかなって思うんだけどさ。父さん、専門学校のお金出してくれない?」
なんの脈絡もなく放たれた息子の言葉に、憲二は耳を疑った。
「時計の修理士? そんなこと、お前の口から1度も聞いたことないぞ。金、金って簡単に言うけどな、気まぐれのために出してやれるほど裕福ってわけじゃないんだ。だいたい、お前、働いてたときの貯金とかはどうしてるんだ?」
憲二は即座に反対した。再スタートのために専門学校に通うという選択は理解できるが、そのための費用を親に出させるのは甘えでしかないと思ったのだ。
父親として、応援してあげるべきしかし、直美の反応は違った。
「あなた、それくらい出してやってもいいんじゃないの? 昌ちゃん、やっとやりたいことが見つかって、これからやり直すつもりなのよ。父親として、応援してあげるべきじゃない?」
直美の言葉は、憲二の胸に小さな痛みを与えた。長年仕事にかまけて昌一の育児を任せきりにしていた負い目が刺激された。
「お願い、あなた……せっかく昌ちゃんが頼ってくれてるんだから……」
直美の気持ちを無視することはできなかった。
結局、直美に懇願された憲二は、昌一が専門学校へ通うための学費と教材費として215万円を渋々工面した。
受け取った退職金の活用を含めて、今も資産運用は続けている。もちろん200万は安くないが、老後の生活水準を維持するのに大きな影響が出る金額ではないだろう。
子供のころに父親らしいことをしてやれなかった罪滅ぼしだと思って、憲二は昌一の新たな夢の行方を見守ることにしたのだった。
●息子のために学費を工面した憲二だが、まもなく息子と妻の「信じられない事実」が露呈することになる――。後編【「ともに暮らしてきた家族とは思えない」FIREをした男性が、妻と息子と絶縁するに至った「あり得ない裏切り」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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