「生活保護を受給すれば…」“貧困ワンオペ介護”に悩む50代女性に、認知症の母親が放った「壮絶な一言」
Finasee / 2024年11月7日 17時0分
Finasee(フィナシー)
狭い更衣室でエプロンを外しながら、ひかりは深くため息を吐いた。今日も、勤務時間が終わった途端に全身に疲労感が押し寄せてくるのを感じる。スーパーでの仕事は常に立ちっぱなしの上、意外と力仕事も多い。50代半ばになったひかりの身体には、ひどく堪えた。
荷物をまとめて顔を上げると、店から割り当てられたロッカーの鏡の中には、覇気を失ってくたびれた自分の顔が映っていた。
ひかりは鏡に映った自分の残像を頭から追い払うかのようにロッカーの扉を閉めた。一日働いて化粧が崩れているのは分かっていたが、時間がないので特に直しもせず、髪を手ぐしでさっと整えただけで身支度を終えた。
「お疲れさま。お先に」
「あ、お疲れさまでーす!」
携帯を片手に談笑していた若いアルバイトたちに声をかけて更衣室を後にする。背後から女の子たちのはじけるような笑い声が聞こえた。
ひかりは時々、同じ職場で働く学生たちがまぶしくて仕方なくなってしまう。心身ともに若く、健康で、深刻な悩みなどなさそうな彼女たちを見ていると、さえない自分の生活が浮き彫りになる気がした。
それでも、今の自分には休んでいる暇などなかった。
パートを終えたひかりは、重い体を引きずりながら駐輪場へ向かい、雑念を振り払うように自転車のペダルを踏んだ。
最愛の夫にも先立たれ「だ、誰だ⁉ 人さまの家に勝手に入ってくるんじゃない! け、警察呼ぶぞ!」
家に帰ったひかりがリビングへ向かうと、烈火のごとき怒声が飛んでくる。鬼の形相でひかりをにらみ付ける母・良子の姿に、慣れているとはいえ思わず身がすくんでしまう。
ひかりは現在、母と2人で暮らしていた。
母は数年前から認知症を患っており、だいぶ足腰も弱くなっていた。階段の上り下りやトイレ、お風呂はもちろん、つえなしでは歩くことすらおぼつかないため、家のなかのちょっとした移動であってもひかりの介護が必要だった。
しかも介護はほとんどワンオペだ。パート中は訪問介護士が来てくれることもあるが、ひかりの生活は、ただただ疲弊するばかりだった。
かつてはひかりにとっての理解者であり、心の支えだった母は、今やその影も形もない。ひかりを見ても誰だか分からなくなることが増え、こうして誰だと声を荒らげられてしまうことも少なくなかった。
「ひかりさん、お疲れさまです。お母さん、今日はちょっとご機嫌が悪いみたいですね。でも、もうすぐ落ち着かれると思いますよ」
「どうもすみません。いつもありがとうございます……」
キッチンで洗い物をしてくれていた介護士がひかりに声をかけ、荒ぶる母をなだめに向かう。彼女のように親切な人がいることは救いだったが、これではどちらが娘か分からなかった。
今日の出来事など、いくつかの伝達事項をひかりに伝えた介護士が帰ると、ひかりは1人で家事をこなしながら、不審そうに自分を見つめる母の世話をする。人がいれば罵声を浴びせられても、顔を忘れられても、何でもない顔でやり過ごすことができる。しかし1人きりになってしまえば、不信感みなぎる視線1つでさえもひかりの心を深く傷つけるナイフになった。
冷蔵庫の作り置きを活用しつつ、夕食を完成させたころには、すでに窓の外は暗くなっていた。
「母さん、そろそろ晩御飯にしよう。今日のおかずはサケ大根だよ」
「嫌だ。私は食べないよ」
暗い気分を振り払うように、なるべく明るく声をかけたが、母の反応は芳しくない。介護士が言っていた通り、今日は機嫌が悪い日なのだろう。
「そんなこと言わないで一緒に食べよう。母さん、大根好きだったでしょう?」
「ばか言うんじゃない。私は大根なんて嫌いだよ。そんなもの食べたくない」
まるで子供のように駄々をこねる母。ひかりには理由も理屈も分からない。その後も食べる食べないのやり取りが延々続き、結局母は夕食を取らずにふて寝してしまった。
きっと母は今日も夜中に腹が減ったと起きてきて、ひかりをたたき起こすのだろう。
1人で食べるサケ大根はほんの少ししょっぱい。沈黙に耐えられずにつけたテレビでは、バラエティー番組の陽気な笑い声が響く。仏壇では父と夫が並んで笑っていた。
介護費用に消えてゆくパート代ひかりの父は何十年も前から鬼籍に入っており、数年前には最愛の夫にも先立たれた。兄弟も子供もいないひかりにとって、家族といえば、今や認知症の母1人だけだった。
だから頑張らなければいけないと思った。この世界でたった1人の肉親である自分が母を支えなければいけなかった。
だが介護は一筋縄ではいかない。物理的にも精神的にもひかりたち母娘の支えとなる存在はおらず、経済的にも厳しい状況が続く。浮上の見込みはなく、毎日をただしのぐだけで報われることもない。
事故で亡くなった夫は、少しばかりの保険金を残してくれたものの、それも日々の生活費や母の介護費用でほとんど使い果たしている。今は、スーパーのパート収入が生活の唯一の柱となっているが、それも母と2人分の生活を賄うには十分ではない。
訪問介護サービスの利用費や、母の医療費、介護用具の購入など、介護に関わる支出は月々8万円ほど。それに対してひかりのパート月給は、手取り10万ちょっと。
将来の蓄えなど夢のまた夢だった。
そんなひかり自身も、もう55歳。パートの仕事も体力的に限界が近づいているが、仕事を辞めるわけにもいかない。このままでは自分が倒れてしまうのではないかという不安が常に頭をよぎるが、老人ホームの費用を捻出できるはずがない。
施設への入居費用だけでなく、毎月の維持費も相当な額になることを考えると、今の生活ではとても手が届かない選択肢だった。
今のところ家計のやりくりに苦労しながらも何とか日々を過ごしているが、確実にすり減っていく貯金は時限爆弾のようにひかりの心をざわつかせ続ける。訪問介護士には生活保護を進められているが、気が進まない。生活保護を受給すると、医療費は保険診療の範囲内なら自己負担はほぼなくなるし、さらに介護扶助が適用されるとかなり生活が楽になると熱弁されたが、どうしても恥ずかしいことだという気持ちがぬぐえず、首を縦に振ることはできなかった。
夕食の片付けをして、風呂で1日の汗を流し、布団に入る。眠りかけたところで母の怒鳴る声がして、ひかりは体を起こす。
すでに日付は変わっていた。
吐きかけたため息をのみ込んで、ひかりは母のもとへ向かった。
●母のこと、家計のこと、悩みはつきないひかり。だが、ある秋の日に奇跡が起こった……。 後編【「1匹のサンマも買えなかった」貧困にあえぐ50代娘が、要介護の実母のために下した「大きな決断」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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