「わたし、間違ったことしてないよ」友だちをたたいてしまう強情な10歳娘…子育てに悩む母を襲った「想定外の災難」
Finasee / 2024年11月19日 17時0分
Finasee(フィナシー)
会社から帰った美花は、休む間もなくキッチンに立っていた。鍋を火にかけてひと段落したところで、ダイニングテーブルで黙々と宿題のドリルをやっている小学4年生の娘に視線を向ける。
「ねぇ、葵……? 今日って学校で何かあった……?」
「え? 何かって何?」
美花が声をかけると、葵は顔を上げ、きょとんとした表情でこちらを見つめた。本当に心当たりがないらしい。
「今日、先生から電話があったよ。葵……またお友達を泣かせたんだって?」
こうして改めて口に出すだけで、思わず頭を抱えたくなる。
小学校に入学してからというもの、葵はこの手のトラブルを何度も起こしていた。今回は掃除の時間にふざけていた同級生をしかったうえ、手をあげて泣かせてしまったという。担任からの電話で初めてそのことを知った美花は、平謝りするばかりだったが、当の葵本人は一切悪びれる様子もなく、いつも通りけろっとしている。
「だってあの子、掃除の時間なのに遊んでばっかりだったんだもん。わたし、間違ったことしてないよ」
そう言う葵のまなざしには迷いのかけらもなく、むしろ自分の行動に対する誇りすら感じられた。
堂々とした娘の態度に、思わず美花は言葉を失う。
夫に似て四角四面なところがある葵は、いつも正しくあろうとしている。言ってしまえば、曲がったことが許せない性質なのだ。自分の前で掃除をさぼるクラスメートがいたならば、それを黙って見過ごすことができず、真っ向から間違いを指摘する。きっと、それが葵の正義感なのだろうし、事実、正しいことだと美花自身も思う。
だが、ときに真っすぐすぎる正義感は、融通が利かずに人を傷つけることもある。
同じような性格の夫なら、もっと葵の力になれたかもしれないが、夫は単身赴任中だ。たとえ完全には葵を理解できなくても、母親として地道に歩み寄っていくしかなかった。
「……そうね、さぼるのは良くない。でも、もう少し優しく注意する方法があったんじゃない?」
「言ったよ? それでも聞かないんだから仕方ないじゃん」
「でもたたいたらダメだよ」
「どうして? 先に悪いことをしたのはルールを守らない人のほうでしょ? 掃除はみんなでするものなのに、自分だけさぼるのってズルだと思う。ルール違反を放っておいてもいいの?」
葵の口調は毅然(きぜん)としていて、どこか非難めいていた。まるで美花が、その「ズル」に加担しているかのような物言いだった。
強情な娘に思わず鋭くなってしまう言葉きっと自分を正しいと信じて疑わない高圧的な態度が、周りとの不和を生むのだろう。
正しいことを真っすぐに伝えられると、時に人は逃げ場がなくなって苦しくなる。そしてその苦しみから逃れるために、つい感情的になったり、反発したくなったりするものなのだが、そのことを10歳になったばかりの娘に伝えるのは難しかった。
葵は確かに間違ってはいない。だがもう少しオブラートに包んで相手に伝えられるようになれば、生きやすくなるだろうに。
「葵、たまには心に余裕をもって、相手を許してあげることも必要なんだよ。この社会だって、全部が全部、きっちり正しくできてるわけじゃないんだから」
「でも、それってズルを許すことじゃない? さぼってる人を許すなら、頑張って掃除をしてる人がかわいそうだよ」
葵の視線は険しく、態度はかたくなだった。ここまで強情だと、美花も少しずついら立ってくる。
「……そうかもしれないけど。でもね、人に厳しくし過ぎて、今回みたいに手を出して泣かせちゃったりしたら、葵が悪者になっちゃうんだよ? それでもいいの?」
思わず鋭くなった言葉に、葵は不満そうに口を閉ざした。言い返す言葉を探しているようだったが、結局何も言わずに目をそらした。
どうやら「悪者」という言葉が、正義感の強い葵には深く刺さったらしい。美花は別に、葵のことを非難したいわけではなかった。ただ分かってほしいだけなのに、それだけの願いがどうしても伝わらない。
沸騰した鍋が、うまくいかない美花をあざ笑うように音を立てた。
火事だ……!その日の夜は、いつもにも増して静かな時間が過ぎた。少し焦げてしまったシチューを囲む食卓には沈黙が流れ、バラエティー番組から流れてくる笑い声がやけに大きく響いた。夕食を終えてからも、葵は黙ったままだった。4年生になってから通い始めた塾の宿題を自室で済ませ、風呂に入る。美花が話しかけても逃げるように背を向けてしまうので取りつく島がなかった。
「お母さん、おやすみ」
それでも就寝前のあいさつだけはしてからベッドに入るところは葵らしくほほ笑ましいが、そんな日常のひとコマすら、今の葵に無理をさせていることがまた心苦しい。
「おやすみ」
葵を見送り、1人きりになったリビングで、美花は冷えた発泡酒を開ける。アルコールで疲れと頭の片隅に残る悩みをうやむやにするなんて、きっと葵が見たら眉をひそめるだろうと自嘲の笑いが口から漏れた。
正しいだけじゃやっていけない――。そのことをどうしたら葵に分かってもらえるのだろうか。
アルコールの入った頭は判然とせず、まどろみのなかでは答えが出るはずもない。口から吐き出されるのはため息ばかりで、嫌になる。
このまま寝てしまおうかと、怠惰な気持ちが頭をもたげる。しかしその瞬間、美花のまどろみを切り裂いてしかるように、マンション中にけたたましい非常ベルが鳴り響いた。
飛び起きた美花は慌てて部屋から飛び出した。耳をつんざく音が何か尋常ではない事態を伝えようとしていることは明白だった。だがマンションの廊下には同じような人がちらほらといて、お互いに状況を理解できないままにクエスチョンマークの浮かんだ顔を見合わせる。
「火事だ……!」
やがて誰かが叫んだ。
「一階のテナントかららしい」
「逃げろ!」
降り出す雨のように声が続き、巣穴を突かれた蜂のように、あちこちの部屋から寝間着姿の住人たちが廊下へとあふれ出す。
「――葵!」
美花はその流れにあらがい、最愛の娘の名前を呼んで部屋のなかへと戻った。
●緊急事態の中で、葵は信じられない行動に出る――。その真意とは? 後編【「早く逃げないと!」突然自宅マンションが火事に…10歳娘が「非難を引き留めた理由」とは?】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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