植田日銀の前途多難な船出、元日銀理事が懸念するのは「物価目標達成」の判断
Finasee / 2024年11月25日 18時0分
Finasee(フィナシー)
日本銀行の11年に及んだ異次元緩和。
「2%物価目標」のために、巨額の国債と日本株(ETF)を買い入れてきました。大きな影響を市場に及ぼした異次元緩和は成功だったのか、それとも失敗だったのでしょうか?
金融正常化へ舵を切るなか、そんな疑問に答える1冊の本が版を重ねています。元日本銀行理事の山本謙三氏が執筆した『異次元緩和の罪と罰』です。山本氏は、金融正常化へ向かう出口には「途方もない困難」が待ち構えていると言います。(全4回の1回目)
※本稿は、山本謙三著『異次元緩和の罪と罰』(講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。本書は2024年9月発売、掲載情報は執筆時点に基づいています。
植田日銀の多難な船出黒田体制のあとを受け、2023年4月に発足した植田新体制は、多くの制約と課題を抱えた中での船出となった。その一端を垣間見るシーンは、すでに就任前からあった。
新しい日銀総裁、副総裁の候補に推挙されると、国会でみずからの所信を述べ、議員との質疑に応じる慣行がある。日本銀行法は「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」と定めており、国会での所信表明と質疑のあとに、両院で同意のための採決が実施される。2008年の衆参ねじれ国会の際には、総裁候補、副総裁候補が所信表明と質疑を行ったあとに、国会で不同意とされるケースが相次いだ。
2023年2月末に行われた参議院議院運営委員会での植田総裁候補に対する質疑では、自民党の世耕弘成参議院幹事長(当時)が質問に立ち、「経済産業大臣などの立場で関わってきたものとして確認したいが、安倍政権の経済政策、『アベノミクス』をどう評価するか」と質した。メディアは、これを安倍派議員による異次元緩和継続のための牽制と報じた。質問に対し植田氏は、「日銀と政府の共同声明に沿って必要な政策を実行し、結果としてデフレではない状態を作り出した」と述べ、「インフレ率が持続的・安定的に2%を達成するよう続けるという意味で踏襲する」との慎重な答弁を行っている。
植田総裁の就任時には、消費者物価はすでに1年にわたり前年同月比2%超えが続いていた。しかし、日銀はこれを「2%の持続的、安定的な達成」とは認めず、異次元緩和を継続していた。
他方、政府は、物価の高騰対策に乗り出し、ガソリン価格や電気料金が抑制されるよう、補助金の交付を始めた。政府が物価上昇の抑制に努める一方、日銀が物価上昇の持続に努める構図は、経済政策の整合性を疑わせる事態だった。
ちなみに、2023年11月に政府が決定した「デフレ完全脱却のための総合経済対策」では、5本柱の第1に「足元の急激な物価高から国民生活を守るための対策」を掲げている。この事実から分かるように、政府によるデフレとインフレ(物価高)の言葉遣いは、一般の理解とは異なる。多くの国民にとって、デフレとインフレは反対語だが、政府の対策では併存可能な用語のようだ。巨額の財政支出と長期にわたる異次元緩和の背後には、こうした巧妙な言葉遣いがあった。
確認困難な「物価と賃金の好循環」植田新総裁は、就任当初から一貫して異次元緩和を否定しない姿勢を維持してきた。その上で、長期金利に限っては、タイミングを計りながらコントロールの緩和に努めてきた。2023年7月、前年(2022年)末に拡大した±0.5%程度の金利変動幅を「目途」と呼び替え、事実上1.0%までの上昇を容認した。さらに同年10月には、名実ともに上限を1.0%に引き上げ、この水準を超える場合も柔軟に運営する姿勢を明らかにした。
植田総裁は、就任以前から、長期金利の抑制が金利機能を低下させることへの懸念を表明しており、そうした理解に立った対応だった。
一方、金融政策の本丸である短期金利のコントロールは、「物価2%を安定的に持続するために必要な時点まで」異次元緩和を継続するとの方針を維持し、総裁就任後もマイナス0.1%を約1年間続けた。その際、日銀が「持続的、安定的な物価目標の達成」を見通すための判定材料としてあげたのは「物価と賃金の好循環」の蓋然性の高まりだった。
この物価目標達成の判定材料は、黒田総裁時代の終盤期に付け加えられたものだった。2022年6月、「値上げ許容度」発言が世間から批判を浴びた日銀は、発言の撤回に追い込まれた。黒田総裁が講演の中で行った「企業の価格設定スタンスが積極化している中で、日本の家計の値上げ許容度も高まってきているのは、持続的な物価上昇の実現を目指す観点からは重要な変化だ」との発言だった(2022年6月6日きさらぎ会での講演)。
それまで、物価が上がらない理由として「適合的期待」の存在を繰り返してきた日銀にしてみれば、家計の値上げ許容度が高まるのは望ましい変化に見えたのだろう。しかし、国民の受け止め方は違った。国民は2022年春以降の生活費の値上がりに苦しんでいた。物価目標2%をかたくなに守ろうとする日銀と、物価上昇率0%を前提に生活設計を行っている家計の間に、大きな認識のギャップがあった。
以後、日銀は、「値上げ許容度」を連想させる発言は控え、「物価と賃金の好循環」への言及を増やした。賃金の上昇を強調することで、国民に寄り添う姿勢を示す狙いもあったのだろう。植田総裁も、持続的、安定的な物価目標達成の判定材料として「物価と賃金の好循環」を確認する姿勢を継続した。
しかし、この判定材料にはいくつかの疑問があった。まず、「物価と賃金の好循環」といえるためには、少なくとも賃金の伸びが物価の上昇率を上回り、プラスの実質賃金がある程度の期間、定着する必要がある。しかし、足元の実質賃金は長期にわたりマイナスが続いていた。
賃金は物価を後追いする傾向の強い指標(遅行指標)なので、物価が上昇する局面で実質賃金がマイナスとなるのはやむを得ない。しかし、大企業の賃上げ動向は春闘の動きで分かるものの、中小・零細企業を含む全体を把握できるのは、例年、秋以降のタイミングとなる。将来の物価見通しを前提に金融政策を判断するにしても、春闘だけで全体を判断するのはリスクがあった。
また、物価と賃金の関係には、好循環も悪循環もある。中央銀行が苦しんできたのは、むしろ物価と賃金の悪循環の方だった。1960年代~80年代の米国、1970年代の日本、1980年代~90年代の南米と、その例は枚挙に暇がない。ならば、好循環であれ悪循環であれ、物価の上昇局面では、金融を引き締める(あるいは金融緩和の程度を弱める)のがオーソドックスな対応だ。悪循環ならば、なおさら早く引き締めに転じなければならない。なぜ、好循環の見極めにそれほど時間をかけなければならないのか、疑問が残った。
●第2回は【なぜ実質賃金は低迷したままなのか? 賃金から日本経済の実相に迫る】です。(11月26日に配信予定)
異次元緩和の罪と罰
著者名 山本 謙三
発行 講談社
価格 1,210円(税込)
山本 謙三/オフィス金融経済イニシアティブ代表
1954年 福岡県生まれ。76年日本銀行入行。98年、企画局企画課長として日銀法改正後初の金融政策決定会合の運営に当たる。金融市場局長、米州統括役、決済機構局長、金融機構局長を経て、2008年、理事。金融機構局、決済機構局の担当として、リーマンショックや東日本大震災後の金融・決済システムの安定に尽力。2012年NTTデータ経営研究所取締役会長。2018年からはオフィス金融経済イニシアティブ代表として、講演や寄稿を中心に活動している。
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