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「お客さん気分でいられるのも今日までだからね」突然、米農家の嫁になってしまった30代女性の「人生の大誤算」

Finasee / 2024年11月28日 17時0分

「お客さん気分でいられるのも今日までだからね」突然、米農家の嫁になってしまった30代女性の「人生の大誤算」

Finasee(フィナシー)

空は、芽衣子の沈んだ気分とは裏腹に青く澄んでいた。

引っ越し業者のトラックが去って、ぽっかりと穴が空いたようにがらんどうになった玄関前に立ちながら、芽衣子は義実家の古びた平屋を見上げる。東京のマンションとは比べ物にならないほど広く、どっしりとした構えの家だ。結婚のあいさつや年2回の長期休暇の際に何度も訪れたことがある。これからこの場所での生活が始まるという実感が、あるいはもう慣れ親しんだ東京に戻ることはないという実感が、まだいまいち湧いてこなかった。

芽衣子は、夫の正志と5歳になる息子の武志と一緒に、家業を継ぐため米農家である義実家に引っ越してきた。

正志が家業を継ぐ話は結婚当初から出ていた。しかしそれをのらりくらりとかわし返事を曖昧に濁していたのは、東京で築いてきた生活があったからだ。

「今日は長旅で疲れただろう。夕飯まで部屋で休んでおきなさい」

腕まくりをした義父の泰司が何らかの作業を止めて縁側から顔をのぞかせていた。芽衣子はお礼を言って家に入ろうとする。ふと、玄関口に立っている義母の澄子がこちらを見ているのが目に入る。

「そんな軟弱で、農家の嫁が務まるのかねぇ」

たぶん芽衣子に聞こえるように、あえてそう口にしたのだろう。だが芽衣子は聞こえないふりをして、「これからよろしくお願いします」と頭を下げて玄関の敷居をまたいだ。

「芽衣子さん。お客さん気分でいられるのも今日までだからね」

追い打ちをかけるように、肩越しに後ろから澄子の声が追ってくる。そこに含まれる言外の意味を考えると、芽衣子はスニーカーを脱ぎながら、曖昧に笑っておくことしかできなかった。

足腰が立たないと言う義母

長距離移動でくたくたの息子を早めに寝かしつけた後、芽衣子は割り当てられた離れの寝室でひと息ついていた。母屋だと気を遣うだろうと割り当てられた離れだったが、隙間風がひどく、厄介者を家の外に追い払おうとする魂胆は見え見えだった。

「どうしてこんなとこに来ちゃったんだろうね」

芽衣子はつぶやき、息子の頭をなでる。

健やかに眠っている5歳の息子は、保育園や習い事の友達と離れたくないと、今回の引っ越しを泣いて嫌がった。特に仲良しの友達と同じ小学校へ行けないと知ったときの息子の暴れっぷりときたら、しばらく手が付けられないほどだった。

あのときからは想像もつかない穏やかな寝顔を眺めながら、芽衣子が無意識にため息を漏らしていると、正志が隣に腰を下ろしてきた。

「どうだ、思ったより平屋もいいだろう?」

正志は何気ない口調で言ったが、芽衣子はその軽い言葉にいら立ちを覚えた。

「建物の問題じゃないよ。農家の嫁って言ったって、私にできることなんてまだ何もないし。お義母(かあ)さんとうまくやっていける自信だってないし」

すると、正志は困ったような顔をして黙り込み、そして、ゆっくりと口を開いた。

「芽衣子、少しずつでも慣れていくしかないんだよ。俺たちは家を継ぐためにここに来たんだ」

「それは分かってる。でも、この子があんなに嫌がってたのを無理やり連れてきて……私だって大好きな仕事を辞めてさ……」

結婚から5年、ようやく自分たちらしい生活を築き上げてきた東京を離れることに、芽衣子は当然気が進まなかった。何よりやりがいを感じ、産休や育休から明けても懸命に働いていた会社を辞めなければならないことは、芽衣子の気分に大きな影を落としていた。

一般的に米農家の平均年収は、340万程度と言われている。これは、30代後半の芽衣子の給料と比べても低かった。義実家の収入を芽衣子が知る由もなかったが、この平均から大きく外れることはないのだろう。収入で仕事の良しあしを比べるつもりはなかったが、この移住によって芽衣子が犠牲にしたものはあまりに大きかった。

「少しずつ慣れていこうよ。な? 仕方ないだろう。おふくろがああなったんだから」

正志は気休めにもならない正論を並べるだけだった。芽衣子はもう何度目になるか分からないため息を吐く。返事を濁し続けていた義実家への引っ越しを決定づけたのは、澄子が事故に遭ったからだった。

数カ月前、雨上がりの土手で足を滑らせ、足腰が立たなくなってしまったと、澄子から連絡があった。

広大な田んぼの面倒を義父1人でまかなうことは難しく、芽衣子たちはずっとうやむやにしていた農家を継ぐ話を受け入れざるを得なくなった。

だが見ての通り、けがの治った澄子はこれまで通りに農作業にいそしみ、一家を支える屋台骨として小言をまき散らしながら元気に振る舞っている。

「分かってるよ」

芽衣子はもう一度ため息を吐きながら、傍らで眠る息子の頭をなでた。

唯一のはけ口は夫だが…

「ちょっと芽衣子さん、何その切り方? みそ汁のにんじんは、普通短冊切りでしょうが。なんでそんなコマ切れにしちゃうのよ」

夕食の支度を任された芽衣子が台所で料理をしていると、すぐ背後から澄子の声がした。

「ああ。これは、息子が食べやすいようにと思って……」

芽衣子は包丁を握る手を止めて、義母を振り返る。野菜が苦手な息子のために、いつも根菜類は細かくさいの目切りにする。5年の子育ての末に見つけた料理の仕方だった。

「甘やかしすぎよ。来年は小学校に上がるんだから、野菜くらい食べられるようにならないと。とにかくそんなみすぼらしく切った野菜は入れないでちょうだい。うちのみそ汁はね、大根とにんじんは短冊、じゃがいもやなすは乱切りよ。分かった?」

澄子は吐き捨てるように言って、芽衣子の返事を待たずに台所から出て行った。

澄子がこうして目くじらを立ててくるのは、野菜の切り方だけではない。義実家には野菜の切り方から掃除の手順まで、澄子が定めた事細かなルールがあった。

郷に入っては郷に従え、とは言うが、こうして頭ごなしに否定され続けるたびに、芽衣子はこれまで自分がやってきたことが全て無駄で間違っていたと言われているような気持ちになる。唯一のはけ口は、正志だったが、それも引っ越し前に期待していたほどあてにはならなかった。

「ねえ、何なの? さっきのお義母(かあ)さんの態度。まるで私たちの子育てが間違ってるみたいな言い方してさ」

正志は少しうろたえたように目をそらす。その態度がまた、芽衣子をいら立たせることは分かっていたが、こうして少しでも発散しなければやってられないのも事実だった。

「いや……芽衣子はそう感じるのかもしれないけど、あの人なりにアドバイスしてるだけだと思うよ」

「本当にそう思う? 私にはただ、いちいち文句をつけられてるとしか思えないんだけど」

「芽衣子、おふくろたちとはこれから一緒に暮らしていくんだから、多少のことは目をつぶってくれ。家族なんだからさ……」

「目をつぶるって簡単に言うけど、私にはそれが本当に苦しいの。私は自分で選んだ仕事が好きだったし、東京での生活も充実してた。それでもここへ来たのは、正志が私の味方になるって約束してくれたからなんだよ」

「それを言うなら、俺と結婚するって決めたときから、いずれこうなることは分かってただろ。仕事の話なんて持ち出すなよ。もういまさらどうしようもないんだから」

芽衣子の言葉には、今まで募っていた不満と失望が込められていたが、正志はただ困ったように頭をかくだけ。芽衣子は言い返す気力もそがれ、ただじっと頼りない夫を見つめるだけだった。

●前途多難な芽衣子の義実家生活。だが、思いもよらないことから義母の真意を知ることになる――。後編【「本当に不出来な嫁だよ」から一転…農家に嫁いだ女性に認知症の義母が語った「15年目の雪解け」】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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