「典型的な熟年離婚の兆候ですね」離婚されたくない定年間近の夫がとった「後悔しないための行動」とは?
Finasee / 2024年12月14日 11時0分
Finasee(フィナシー)
社内に設置されたカフェテリアで、春樹はランチプレートの載ったトレーを持ったまま、空いている席を目で探した。ほとんどの部署が昼休みの時間帯だけあって、毎回テーブルを確保するのも一苦労だ。
「森田部長、こっち空いてますよ」
そのとき、ふと部下の太田から声をかけられ、ようやく春樹は彼が指さす席に腰を下ろした。
「相変わらずここは混んでますね」
苦笑いしながら紙ナプキンのホルダーを取ってくれた彼は、春樹が管理職に昇進して初めてできた部下だ。
意気衝天の若手社員だった太田も今や課長。一方の春樹は、今年いよいよ定年退職を迎える年齢になっていた。
「いやぁ、森田部長がいなくなると、寂しくなりますね。シニア雇用とかは使わないんですもんね」
「まあな。少しのんびりしようと思ってな」
「いいじゃないですか。奥さんも喜ぶんじゃないですか? どうせ森田部長、仕事一筋って感じでここまで来たんでしょうから、少しは家族孝行してあげないと」
妻や家族の話題が出て、春樹の顔は曇った。太田もその変化を感じ取ったらしく、「どうかしたんですか」と神妙な面持ちで聞いてくる。
「いいや、大したことじゃないんだが、実は、妻が資格の勉強を始めたんだ」
結婚してからというもの、妻の百合子はずっと専業主婦だった。しかしその百合子が最近、何やら参考書を買い込み、資格取得に向けて勉強を始めたのだ。こっそりのぞいてみたところ、どうやら福祉関連の資格らしい。
「へえ、それはすごいですね」
「まあそうなんだが、せっかくゆっくりできるようになるのに、わざわざ働きに出なくたっていいだろうと思ってな……」
「やめてくださいよ、熟年離婚とか」
太田は冗談めかして言ったようだが、春樹は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「この前テレビで特集を見たんですけど、奥さんが急に資格の勉強を始めるのって典型的な兆候らしいですよ。旦那から独立して自分で稼ぐ準備ってことみたいです」
「いや、そんなわけないだろう。まさか百合子が離婚なんて……」
「まあ、俺みたいなバツイチが言うのもなんですけど、今のうちに手を打っといた方がいいですよ。熟年離婚されると、男は大抵路頭に迷うって言いますし……うちも奥さんに出て行かれたのは、突然だったんで」
空のトレーを持って立ち上がる部下の言葉に、春樹は何も言い返せなかった。
熟年離婚の条件にすべて当てはまることに気づく2人きりの静かな夕食を終えると、百合子はさっと皿を片付け、ダイニングテーブルにノートとテキストを広げた。
百合子が資格の勉強を始めたのはここ数週間のことだが、この時間になるときっちりテーブルに向かうのが習慣になっていた。
春樹は、その様子をソファに腰掛けながらちらりと見た。なぜ妻がそんなに熱心に取り組んでいるのか気になったが、集中している妻の邪魔をするのも気が引ける。
なあ百合子、なんで急に勉強なんか始めたんだ?
喉まで出かかった言葉を飲み込んでリモコンを手に取ると、テレビの音量を少し下げた。
まさかとは思うが、昼間太田に言われた「熟年離婚」という言葉が頭から離れなかった。春樹は老眼鏡を掛け、手にしたスマホを膝の上でこっそり開き、検索窓に人さし指で「熟年離婚 兆候」と打ち込んだ。
画面に並んだ検索結果を指でスクロールしていると、それらしい記事が次々と目に飛び込んでくる。
「夫婦の会話が減少する」「子供が独立し、夫婦だけの時間が増える」「妻が自立を目指す行動を始める(資格取得や仕事探しなど)」「夫が家事や育児を妻に任せきりだった場合、不満が蓄積している可能性が高い」
記事を読み進めるうちにスマホを握る手がじっとりと汗ばむのが分かった。
春樹は思わずスマホから目を離し、画面を伏せるようにテーブルの上に置いた。まるで誰かに春樹たちの夫婦生活を言い当てられているような不気味さがあった。
リビングのソファに深くもたれかかりながら、熱心にテキストを読み進める百合子の横顔を見つめた。
いつの頃からか、夫婦の会話はめっきり減った。
先ほどの夕食にしてもそうだ。百合子が食事を作り、春樹が食べ、たまに天気やニュースの話題を交わす程度。それも、どちらかが適当な相づちで済ませることが多い。
だが1番の問題は、何と言っても家事や育児のことだろう。春樹は家族のために必死で働いてきたつもりだったが、いざ振り返ってみると、2人の息子の面倒も、家事も炊事も、百合子に任せきりだったと認めざるを得ない。
しみじみとそう思ったそのとき、百合子がふいにペンを止めて顔を上げそうになるのを察知して、春樹は慌てて視線をテレビに戻した。
テレビでは名前の分からないタレントが、カメラを指さして笑っていた。
その日の夜中、寝つきが悪く、水を飲みにキッチンへ降りてきた春樹の目に、リビングの壁掛けカレンダーが目に入った。しばらくグラスを片手にぼんやりと数字を眺めていると、唐突に思い出した。
来週は、春樹たちの結婚記念日だ。
「そうか……今年でもう40年になるのか」
最後に記念日を祝ったのは、いつだっただろうか。百合子が文句を言わないのをいいことに、プレゼントを用意するどころか感謝の言葉すらも伝えなくなっていた。こんな体たらくでは、愛想を尽かされても仕方がないと自分でも思った。
なんとなくこのまま部屋に戻るのもばつが悪く、すぐには眠れそうになかったので、春樹はソファに腰かけた。テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホを手に取り、どんなプレゼントを贈ればいいのかを考える。
今年はきちんと祝おうと思った。調べてみれば、40周年はルビー婚というらしい。百合子の好きな色である、赤い何かを贈るのがいいだろう。
調べているうちに、徐々に睡魔が近づいてきた。春樹はスマホを置き、寝室へ戻った。
妻の本心は?迎えた結婚記念日当日。
春樹はいつもなら直行する帰り道を外れ、駅前のデパートに足を運んだ。
ワイン売り場では、普段なら絶対に手に取らない価格帯のボトルを選び、洋菓子コーナーでは華やかなデザインのショートケーキを2つ購入した。そして、その足で花屋に向かい、店員に声をかけた。
「これをください。プレゼント用で」
花の種類には疎い春樹だが、購入するものは最初から決まっているから迷いはなかった。
40年前、百合子にプロポーズしたときと同じ赤いポインセチアだ。
確か花言葉は、「祝福」と「幸福を祈る」だったか。花束を受け取った百合子がうれしそうに教えてくれたことだ。
腕いっぱいに袋を抱えた春樹は、そわそわしながら家路についた。
リビングのドアを開けると、温かい香りが鼻をくすぐった。
百合子がキッチンで夕食を仕上げているらしい。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
ドアの前で突っ立ったまま動かない春樹を不審に思ったのか、百合子が作業の手を止めてこちらを振り返った。
「それ、どうしたの?」
少し目を見張りながら尋ねる百合子に、春樹はおずおずとポインセチアの花を差し出した。
「今日、結婚記念日だろう? だから、その、なんだ、あれだよ、あれ」
「あら、珍しい。ありがとう」
しどろもどろな春樹をよそに、百合子はあっさりとポインセチアを受け取った。春樹は拍子抜けしつつ、ほっと胸をなでおろした。
間もなく夕食が完成すると、春樹は少し緊張しながら、百合子と向かい合って席に着いた。テーブルの上に並ぶのは、いつもより少し手の込んだ料理。もしかして百合子は、結婚記念日には毎年こうして豪華なメニューを作っていてくれていたのだろうか。そう思い至ると、春樹の胸は申し訳なさでいっぱいになった。
「百合子……俺は今まで仕事ばかりで、家のことはお前に任せきりだった。それに、あんまり感謝の言葉も言えてなかったと思う……本当にすまなかった」
春樹がそう言って頭を下げると、しばらくの沈黙ののち、百合子がゆっくりと口を開いた。
●春樹の不安な予感の通り、妻は熟年離婚を考えているのだろうか? 妻・百合子の本心が明かされる――。後編【「離婚の準備でもしてるんじゃないかって」結婚記念日にポインセチアを持って帰った夫に、妻が行った「40年分の仕返し」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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