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「こんな俺を支えてくれて、ありがとう」ともに暮らして20年の事実婚夫婦を襲った「避けられない悲劇」

Finasee / 2025年1月13日 11時0分

「こんな俺を支えてくれて、ありがとう」ともに暮らして20年の事実婚夫婦を襲った「避けられない悲劇」

Finasee(フィナシー)

夕方のキッチンには、優しい香りが満ちていた。

「洋ちゃん、もうすぐできるからねー」

夏海は鍋をかき混ぜながら、リビングにいる洋史に明るく声をかけた。

今日のメニューは、サバの味噌煮と豚汁。ただし、サバの身はそぼろ状になるまで細かく解し、野菜は汁に溶け込むほど細かく刻み、とろみをつけてある。いずれも舌で潰せるほど柔らかく仕上げたもの。

そう、これは介護食だ。

洋史が病気の進行によってそしゃくや嚥下が難しくなってから、夏海は普通の料理はほとんど作らなくなっていた。自分の食事は、いつもスーパーの出来合いか、洋史の残り物で済ませていた。

「味付け、これで大丈夫かな……」

スプーンでひとさじすくい、塩加減がちょうどよいと確認すると、夏海は完成した料理をプレートに盛り付けていった。

夏海がトレーを持ってリビングに向かうと洋史は返事の代わりにぎこちなく微笑み、静かにまばたきをした。これは「ありがとう」のサイン。発語が上手くできなくなってからは、目の動きや笑顔、ジェスチャーで意思疎通を図ることが増えていた。

「それじゃ、いただきまーす。まず何から食べたい? おかゆ? 豚汁? サバ?……オーケー、豚汁ね」

小さい匙でゆっくりゆっくり彼の口に食事を運びながら、夏海は遠い過去に思いを馳せる。

20年前、洋史と出会ったころは、こんなふうに彼の食事の世話をする日が来るなんて想像もしなかった。いや、たとえ世話をするとしても、それはもっともっと先の話だと思っていたのだ。

「家族っていうものにあんまり良い思い出がないんだよね」

派遣社員として働いていた20代の夏海は、たまたま派遣された会社で洋史と知り合った。

「今井さん、この作業まだ教わってないよね?」

初めて洋史が声をかけてきた日、彼の自然な気遣いに心が和んだのを今でも覚えている。

夏海は彼の明るくもひょうひょうとした性格に惹かれ、それから半年も経たないうちに一緒に暮らし始めた。

洋史との暮らしが始まったばかりのころ、夏海は密かに彼と将来籍を入れることを考えていた。しかし、それとなく話題を振ると、彼が入籍には否定的であることを知らされた。

「実は俺さ、家族っていうものにあんまり良い思い出がないんだよね」

そう言う洋史の顔はどこか寂しげだった。

聞けば、幼少期からずっと家族間で対立が絶えなかったらしい。特に父親とは口をきくことすらほとんどなく、成人してからは実家に寄りつくこともなくなったという。

「そう……洋ちゃんは家族が苦手なんだね……」

「うん、だから自分の家族を持つっていうのに、昔から抵抗があるっていうか、なんかうまくイメージできなくてさ。それに結婚って、相手のことを法律で縛るみたいな感じがして嫌なんだ。無責任に聞こえるかもしれないけど、俺たちが一緒にいる理由は、もっと自由なものなんじゃないかって思う」

口下手な洋史の告白を聞いて、夏海は妙に納得したのを覚えている。

実は夏海自身も、決して家族仲が良いとは言えない。仕事人間の父親は自宅にいる間いつも不機嫌で、母親はどこか冷たく遠い存在だった。そのせいか、洋史の気持ちを無視してまで結婚を望む気にはなれなかった。

「そうだね。別に結婚って形にこだわらなくたって、私は洋史といるだけで十分だよ」

「ありがとう、夏海……」

籍を入れない選択は、考えてみれば夏海にとっても不自然ではなかった。

2人の暮らしは小さな賃貸アパートから始まり、洋史が仕事で昇進して少し広めのマンションへ引っ越したころが、一番穏やかだった。

日常の何気ない出来事を共有しながら、夏海は彼との生活に確かな幸せを感じていた。

こんな俺を支えてくれてありがとう

洋史の病気が発覚したのは、彼が30代半ばに差し掛かったころ。

過度の疲労感や筋力の低下を感じ始めた洋史が病院で診断を受けた結果、国指定の難病だと分かったのだ。現時点で効果的な治療法はなく、症状は徐々に進行していく。そして最後には、呼吸や心肺機能までも低下してしまう。診察室で洋史と一緒に医師の言葉を聞きながら、夏海は頭の中が真っ白になるのを感じた。

「夏海、まだ時間はあるよ。そう悲観することない」

「うん、そうだよね……」

洋史は明るく言ったが、夏海はその声に隠された不安を感じ取っていた。

医師の説明通り、洋史の体は次第に自由に動かなくなっていった。

診断後間もなく通勤が難しくなり、やがて自力での歩行も辛くなった。職場を辞め、入院せざるを得なくなった洋史に代わり、夏海は可能な限りパートを増やした。

しかし、いくら愛する人のためとはいえ、日常が失われていくことは辛かった。
洋史の体調が悪化するたびに、月に何度も病院に駆け込むこともあった。食事も、飲み込みやすいように工夫を重ねたが、それでも時折むせることがあり、そのたびに夏海の胸は締め付けられるようだった。

それでも、洋史が感謝の言葉を忘れないことが、夏海を支えた。

「今日のご飯も、すごく美味しいよ」

「洗髪ありがとう、すっきりした」

「こんな俺を支えてくれて、ありがとう」

指先や顔の筋肉が動かせなくなってからも、洋史は目の動きでテキスト入力ができる機械を使って、精一杯夏海とコミュニケーションを図ろうとしていた。

そんな洋史が息を引き取ったのは、病名を宣告されてから実に8年目のことだった。

最期は一緒に暮らした家で、という希望があったため、洋史は自宅の介護用ベッドの上で静かに亡くなった。

最期の瞬間、彼は力を振り絞るようにして一言「ありがとう」とメッセージを残した。

「私の方こそありがとうだよ、洋ちゃん……」

彼の死は、まるで自らの半身を失ったような痛みと喪失感をもたらしたが、それでも夏海は最期まで前向きに病気と闘った洋史を誇りに思い、彼を送り出す準備を進めた。

それが今の自分が洋史にしてやれる唯一のことだと思ったからだ。

●葬儀を執り行うと長年疎遠だったはずの洋史の家族たちが前触れもなくやってくる。彼らが夏海に突きつけたのはあまりに非情な要求だった。後編【「内縁の妻には何も残さない」難病の夫を見捨てた義家族の理不尽な要求から事実婚の妻を守った「亡き夫の愛」】にて詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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