「私たちが道を示してあげなきゃ」娘の幸せを願う平凡な主婦がハマってしまった「お受験の沼」
Finasee / 2025年1月25日 11時0分
Finasee(フィナシー)
歳を取ってから生まれた子供はかわいいというけれど、一美にとってその子もまた、かけがえのない宝物だ。一重のつぶらな瞳。短くカールしたまつ毛。つやつやした小さな鼻。集中するとぽかんと開いてしまう小さな口。そのすべてが愛おしい。一美は、画用紙にカラフルな絵を描いている美織を見つめながら、しみじみとそう感じていた。
「上手だねぇ、美織。何描いてるの?」
一美の夫である康が画用紙をのぞき込む。
「みおちゃん、あれ描いてるんだよ」
小さな人差し指の先にあったのは、リビングに飾られたバラのアートフラワーだった。
「全部描けたらお父さんにあげるね」
「みおちゃんが描いてくれる絵、お父さん嬉しいなー」
康が目尻を下げて言った。リビングに差し込む光の筋が夕暮れ時を知らせている。大好きなものしかないこの部屋を眺めながら、一美は幸せとはこういうものなのだと噛みしめていた。
だが同時に、どういうわけかこんなときに訪れる一抹の不安も、一美は見過ごすことができず鼓動が少し早まる。それは一美にとって、「幸せな家庭」というものをこの歳まで知らずに過ごしてきた副作用のようなものかもしれなかった。
二人が出会ったのは、一美が32歳、康が36歳のときだった。それから6年のあいだに美織が誕生し、今年で4歳になった。本当にあっという間だったし、一美の人生でもっとも充足感を抱いた日々だと言っても過言ではなかった。
「この幸せを絶対に守らなくてはならない」
一美のそんな思いは、時折脅迫めいて一美の心を急き立てるのだった。
教育環境を整えるのは親の務めその日の晩、昼間とは打って変わり、リビングには一美のため息が重く漂っていた。テーブルには、私立小学校のパンフレットが積み重なり、いずれも一美が念入りに読み込んだ跡が残っている。彼女の視線は、その中でも誰もが知る校名が刻まれたパンフレットに釘付けだった。
「美織にはここが合うと思うの」
一美は向かいに座る康にそう告げた。視線はパンフレットの上から動かない。康は一瞬だけそこに視線を移したが、すぐに深いため息をついた。
「またその話か。美織はまだ4歳だよ。本人が何をしたいのかも分かっていないのに、受験なんてしなくても」
「でもこの前、幼稚園で会った陽太くんのお母さんが言ってたの。『今の時代、良い教育環境を整えるのは親の務めだ』って。それで陽太くん、ここに合格したんだよ」
パンフレットを人差し指で叩きながら一美が力を込めて言った。康は眉をひそめ、苛立ちを抑えたような口調で答えた。
「俺たちは俺たちだからさ。美織が本当に望んでいることを考えようよ」
だからこそじゃないの、と言おうとしたが、康が話を切り上げるように立ち上がり、「おやすみ」とだけ残して寝室へ行ってしまった。一美は消化不良のまま、先日幼稚園であった出来事を思い出していた。
「美織ちゃんは、どこの学校に行きたいの?」
ひとつ上の年長さんである陽太の母親にそう尋ねられたとき、美織は、「陽太くんと同じところ!」と笑って言った。一人っ子で人見知りである美織に、男児で唯一優しい接し方をしてくれるのが陽太だった。そんな陽太のことが大好きで、彼の進む道なら安心だという、美織にしてみればそれだけの理由だったにすぎない。だが美織のその深い意味を持たない発言が、一美の心に火をつけた。
出遅れている娘その頃すでに、幼稚園のママ友たちの間では、どの小学校が良いか、受験準備にいくらかかるかが日常の話題になっていた。一美の家のお財布事情だって、決して余裕があるわけではない。
けれども美織1人だけならなんとかなるし、なんとかするのが親の愛の証だという考えすら一美にはあった。自分が決して受けられなかった愛情を、美織には自ら注いであげたい。その一心で、一美もお受験組のママ友の輪に入り、情報をかき集めるようになった。
小学校受験など縁遠かった一美にとって、知らないことばかりだった。
たとえば、年長時の幼児教室や塾の費用が一年間で100万円ほどかかる。模擬テストや教材購入費もそれぞれ10万円近くかかる。それだけではない。受験当日の服装にしても、3人分のスーツ、鞄、靴などを合わせれば30万円ほど見積もる必要がある。タクシー代などの雑費も10万円くらいで計算すれば、年長時だけで160万円ほど必要になる。もちろん入学してからかかる費用を考えれば、これは序の口と言えるだろう。
サラリーマンの康と専業主婦の一美の今の収入だけでは、苦しいのが現状だ。マンションのローンだってまだ30年以上残っているというのに。
けれども一美にとってもっともショックだったのは、すでに美織は出遅れているということだった。小学校受験の入試が年長時の10月から11月にかけて行われるため、新年度の塾のカリキュラムも11月から始まってしまっている。その事実も、一美を一層焦らせた。
だから一美は改めて覚悟を決め、康に切り出した。受験に向けて、すぐにでも動き出す必要があることを。
「美織が受験したいって、本当に思っているのかな?」
案の定、康は一美の話を途中で遮り、否定的な意見を口にした。
「その選択が本当に美織を幸せにするなら僕だって応援したい。だけど美織は、よくわかってないんじゃないかな」
「だからこそ、私たちが道を示してあげなきゃいけないのよ! 私たちだって年を取ってから美織を授かった。あの子に可能性を広げてあげるのは、私たちの責任じゃないの?」
「そうなんだけどさ。でもまだ小さいのに」
「わかるはずないって? そうかもしれない。でもいつか美織だってわかる日が来るはずよ。私たちが美織のためにした選択が、きっと最善だったんだって」
一美の声はどんどん熱を帯びていく。
「親なら、子供のためにどうするのがいいか一生懸命になるのは当たり前じゃない! そんな当たり前のこともしないで、親の資格なんてあるわけないのよ!」
途中から、一美の脳裏には両親の姿が浮かんでいた。「女に学はいらない」と言ってパチンコに給料の多くをつぎ込んだ父と、義務教育を終えたら家に金を入れろと言った母――。
気づけば一美は、自分の爪を太ももに食い込ませていた。
●両親のようにはなりたくないと、より一層、美織のお受験にのめりこんでいく一美。いつしか、お受験に否定だった康とは軋轢が生まれるように、そして美織からは笑顔が消えていった。後編:【「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ…」お受験に没頭した母に突き付けられた無慈悲な結果、そして気づいた「親としてすべきこと」とは】ではより詳しくお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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