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「私決めたの」4年間で学費約800万、音大進学を希望する娘、反対する父。二人の対決の行方は

Finasee / 2025年1月27日 19時0分

「私決めたの」4年間で学費約800万、音大進学を希望する娘、反対する父。二人の対決の行方は

Finasee(フィナシー)

千鶴は卵をフライパンに落としながら、思わずため息を漏らした。

リビングの窓から差し込む朝の陽光を眺めながら、頭の中は昨晩の出来事でいっぱいだった。

いつも通りの食卓だった。

作りすぎてしまって2日目に突入したカレーが並び、高2の娘である知佳が「え、またカレー?」と眉をひそめる。夫の憲武は黙々と平らげ、おかわりをし、「味変すればいい」と大量の福神漬けをカレー皿に盛りつける。テレビからニュースキャスターが原稿を読み上げる声が聞こえ、緩やかに時間が流れる。

「知佳、そういえば担任の先生から電話あったよ? 進路指導の紙出してないんだって?」

「あ、忘れてた。でももう決めてるよ。音大」

知佳がそう口にした瞬間、食卓も、テレビも、家のなかから全ての音が消えた。

「なにやりたいかって考えたら、やっぱ音楽かなって。だから音大受けるよ」

きっとほんの一瞬訪れた沈黙の意味を知佳なりに察したのだろう。念を押すようにくり返した。

知佳は中学から吹奏楽部に入り、親のひいき目を抜いても熱心に活動してきた。早朝から朝練に出かけ、帰りは夜遅く、土日も朝から晩まで吹奏楽漬けの日々を送っている。

だから音大に行きたいと言われて驚きこそしたものの、千鶴には腑に落ちる気持ちもあった。

「音大なんてやめておけ」

だが、案の定、憲武の反応は冷たかった。

「学費も高いし、卒業したからって安定した仕事に就ける保証もないしな。音楽やりたいなら、普通の大学でサークルでもやればいいだろう」

「は? 無理だよ。興味ないし。サークルとか、そういう遊びじゃなくて、もっと本格的にサックスやりたいの。それに、安定で言うなら教員免許でも取ればいいじゃん」

「そんな中途半端な考えで、学生に何を教えるっていうんだ」

「は? まじ何なの」

「とにかく駄目なものは駄目だ。進路の紙は四大を書いて出しなさい」

憲武は有無を言わせずに言って、カレーを食べる手を再び動かし始める。もう話すことはないと、機械じみた動きが告げていた。

「意味分かんな」

舌打ちとともに吐き捨てた知佳は、スプーンをテーブルの上に放り出し、立ち上がる。

「ちょっと知佳⁉ ご飯は?」

「いらない!」

リビングを飛び出して2階の自室へ向かう知佳を追いかけようとした千鶴だったが、憲武が呼び止める。

「放っておけ。現実が見えてないんだよ、あいつは」

憲武の言葉には、傷ついたことがある人間特有の重みがあった。だから千鶴は黙るしかなかった。足元が急に沼地になり、沈んでいくような錯覚を覚えた。

高い音大の学費

今朝、知佳はいつもよりも早く、まだ外が暗いうちに朝練に出かけた。

憲武とはもちろん、千鶴とも顔を合わせたくなかったのだろう。朝食を用意しようと起きた千鶴の耳には扉が閉まる音が刃物のように鋭く響いた。

たしかに夫の言う通り音大の学費は高い。調べてみたところ、4年間でおよそ800万円もかかるらしい。一般的な4年制大学が、国公立で平均約250万、私立でも約470万であることを考えると、おいそれと支払える金額ではない。

加えて、楽器を新しく買ったりすれば数十万円は平気でかかる世界だ。知佳はひとり娘で、憲武の収入だって消して少ないほうではないはずだが、それでも音大での本気の学びを支えるには相応の覚悟がいる。

それに、音大を無事に卒業できたとして、音楽で食べていけるのかという憲武の言い分ももっともだと思う。教員免許を取れば学校の先生の道が開けるのかもしれないが、教員免許だって片手間に取れるようなものでもないだろう。

親として、どうするのが正解なのか分からなかった。

千鶴はもう何度目か分からない溜息をつきながら、出来上がった弁当用の卵焼きを切り分けていく。いつものくせで、はじっこを味見して、思わずむせた。咳き込み続けていたら涙が出た。どうやら砂糖と塩を間違えて作ったらしかった。

ノリで音大とか言ってるわけじゃない

正解は分からない。だが何が正しいのかを決める前に、知佳の話を聞くべきだと思った。だから、その日、部活から帰ってきて真っ直ぐ部屋へ向かっていった知佳のもとに夕食を運びがてら、千鶴は扉越しに声をかけることにした。

「知佳、ちょっと話せるかな」

「なに?」

「進路のこと」

「うっさいな。もう決めたの。紙も出したし」

「うん。分かってる。でも、お母さんもまだちょっと不安。大学を出たあと、知佳の人生は何十年も続くでしょ? だから大学だけじゃなくて、その先のこと、知佳がどう考えてるのか聞きたくて」

扉の向こうから返事はなかった。だが千鶴が待っていると、扉が薄く開いた。

「入って」

知佳に言われるがまま、千鶴は部屋に入った。

「別に私だってさ、ノリで音大とか言ってるわけじゃないんだよ」

夕食の親子丼を食べながら知佳が話すのを、千鶴はベッドの上に座って聞いていた。

「ピアノとかヴァイオリンとかトランペットとか声楽はさ、小っちゃいころからやってないと難しいんだけどさ、サックスはそうでもないんだよ。演奏者の数も、そこまで多いわけじゃないし、中学から始めたけど第一線で活躍してる人だっているし」

「そうなの」

千鶴は相槌を打ちながら驚いてもいた。当然なのかもしれないが、サックスという楽器について、自分の将来について、整然と話す知佳の姿に、頼もしささえ感じていた。

「そうだよ。それにさ、今はクラシックでオーケストラとか所属したりできたらなって思ってるけど、サックスはジャズもいけるし、最近だったらポップスのアーティストの後ろとかで演奏したりするチャンスもあるし。ママだってテレビで見たことあるでしょ?」

千鶴はうなずく。たしかに見たことはある。それどころか、「知佳だってこうなれるんじゃない?」と音楽番組を見ながら話してすらいた。だが冗談半分だったステージへの道筋を本気で歩み始めようとする娘を目の前にした今、どうするのが正しいのか分からず困惑しているのだ。

「ちな、ただ音大ってだけじゃなくて、志望校も決まってる」

「え、そうなの?」

「うん。志望校っていうか、師事したい人っていうか。この先生。もともと日本トップクラスのサックス奏者だったんだけど、弟子の活躍がすごくて海外で認められてる人もたくさんいるんだよ」

知佳が差し出したのは都内にある音大のパンフレットだった。自分で取り寄せたのだろうか。部活のおかげですっかり筋肉質になった知佳の腕の筋は、夢に立ち向かう本気さを物語っているように見えた。

「分かった。応援する。パパのこと、説得できるように協力する」

千鶴が言うと、知佳は「ほんと」と目を丸くしていた。

●千鶴も説得に乗り出すのだが、それでも父・憲武が知佳の音大進学を反対する気持ちは揺るがなかった。なぜなのか。憲武には夢を追ったことで負った深い心の傷があった……。後編:【「バンドでメジャーデビューなんて考えなければ」夢破れた過去から、音大進学を反対する父を動かした娘の熱意】にて詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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