「バンドでメジャーデビューなんて考えなければ」夢破れた過去から、音大進学を反対する父を動かした娘の熱意
Finasee / 2025年1月27日 19時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
大学進学を控えた娘・知佳が主婦の千鶴に告げた希望進学先、それは音大だった。学費は高い。卒業したからといって音楽で安定した職に就けるかもわからない。夫の憲武は娘の進路希望にはっきりと反対する。
それでも、知佳の決意は揺るがない。理路整然と演奏している「サックス」という楽器の位置づけや自身の将来について語る知佳。決して「ノリ」で進路を選んだわけではないようだ。千鶴は憲武を説得しようと試みるのだが、憲武には夢を負い失敗した苦い過去があった。
前編:「私決めたの」4年間で学費約800万、音大進学を希望する娘、反対する父。二人の対決の行方は
俺は認めないリビングには久しぶりに家族3人揃った姿がある。
だがかつてのような団らんはなく、凄腕の剣士たちの立ち合いのような、鋭く尖った空気で張り詰めている。
「何度話をされても、駄目なものは駄目だ。母さんが納得しても、俺は認めない」
まず口を開いたのは夫の憲武だった。声はいつにもまして鈍重で、有無を言わせない凄みをたたえている。多数決なら2対1で千鶴たちが有利なはずなのに、まったくと言っていいほど夫が首を縦に振る絵が想像できない。
とはいえ、千鶴たちだって情に訴えかけてなんとかなると思っているわけではなかった。
「現実が厳しいのは分かるよ。音楽で食べていけるのなんて、ほんのひと握りの人だけだってことも。でも、知佳が本気で頑張りたいって言ってるんだから、その背中を押してあげるのだって親の役目でしょう?」
「子どもが道を踏み外しそうなときに、正してやるのが親の役目だろ」
「踏み外してないから。音大生に失礼すぎでしょ」
知佳の鋭い声が飛ぶ。
「何だその口の聞き方は?」
憲武も凄む。
このままでは本題から話がどんどん逸れていくので千鶴があいだに割って入る。
「落ち着いて。2人とも。けんかするために話してるんじゃないでしょ」
2人が同時に舌打ちをする。
けっきょく似ているのだ、この2人は。
ただ違うのは抱え込んだ傷があるかないか。それだけが違うから、2人は相容れない。
だから千鶴は憲武に問いかける。
「何でそんなに反対なの?」
「何度も言ってるだろ。現実は甘くない」
憲武の態度は頑なで、取り付く島もない。だから大きく1歩、千鶴は歩み寄る。寄り添うのではなく、娘の本気に答えるために。たとえ夫の傷をえぐっても、胸座を掴むために。
「現実って、バンドのことよね?」
「え」と呟いたのは、隣に座っている知佳だった。だが千鶴は構うことなく憲武を見ていた。
「いいだろ。そんな昔の話は関係ない」
「よくない。関係もある。ちゃんとお互いのこと話さなきゃ」
「ねえ、ママ。バンドってどういうこと?」
「パパ、昔バンドをやってたの。ママと知り合ったのは辞めたあとだったから、直接聞いたことはないんだけどね。付き合い始めのころ、まだパパの家にはギターとか楽譜とかが残ってた」
「知らなかった」
「言ってないからな」
「もしかしてさ、自分がバンドで駄目だったから、私の音大にも反対してんの?」
憲武は観念したように小さく息を吐く。
「俺は夢を追った結果、何も得られなかった。むしろ失ったものばかりだった。28歳までバイトしながらバンドをしてたから就職活動は死ぬほど苦労したし、最後はバンドメンバーとだって険悪になって解散したから、どこで何してるかだって知らない。もっと早く引き返してたら、そもそもバンドでメジャーデビューなんて絵空事を考えついていなければって何度思ったことか」
私は大丈夫言葉のひとつひとつが重く響き、部屋の空気を軋ませているようだった。知佳は黙って聞いていた。きっと、憲武の当時の苦しみや後悔に近づけるとすれば、それは千鶴ではなく、知佳なのだろう。
「上手い下手だけじゃないんだよ。努力が報われるわけでもない。出会いとか、タイミングとか、運もある。そういうのは自分の力じゃどうにもならないことばかりだ。何で俺たちより下手くそなバンドが先にレーベル契約結べるんだって苛立ったことも、1度や2度じゃない」
夢に敗れる。文字にすれば簡単だが、追い続けた夢に手を伸ばすことを辞めるとき、一体どれほどの痛みを伴うのか、千鶴には計り知れない。
「もちろんクラシックとバンドが全然違うことは分かってる。でも、絶対に知佳にはそんな思いをしてほしくないんだよ。若気の至りで不確実な道を進むんじゃなく、ちゃんと幸せになれるほうに進んでほしいんだ」
だがそれでも、憲武と知佳は違う。似ているが、まったく別の人間だ。
「なんだ、そんなこと。だったら関係ないじゃん。私は別にパパじゃないもん。パパが辛かったのは、それはそうなんだろうけど、私は大丈夫」
「お前な、そういうこと――」
「そういうことだよ。別に絶対に成功して音楽で生きてく、とか言ってるわけじゃないよ。パパは音楽やってた自分を否定してる。成功できなかったから。でも私は違う。どんな結果になったって、私は音楽をやってきた自分を否定しない。だって、私にとって音楽は人生だもん」
知佳の言葉は真っ直ぐで、そして眩しかった。
それから知佳は、以前話してくれた大学で教わりたいサックスの先生のこと、受験までの過ごし方や奨学金のこと、教職課程を履修した場合のシミュレーション、自分のレベル別に考えた卒業後の選択肢を憲武に説明した。
おそらく自分なりに考え、憲武に伝えられるように考えたのだろう。もちろんまだまだ甘い部分もあったが、それでも熱意だけは確かに憲武の胸を打ったようだった。
「学費については、私もパートを始めて協力する。もちろん全額とはいかないけど、今から備えておけば、差し引いて普通の私立大に通うのと大して変わらないくらいになるでしょう?」
「私、もしここで音大を諦めたら、絶対に後悔する。やれることは全部やりたいの。やる前から諦めるなんて、それこそ中途半端だから」
腕組みをした憲武は黙って目を閉じていた。知佳と千鶴は息を呑んで待った。出せるものは全て出した。伝えられることは全て伝えた。
やがて憲武が目を開け、ゆっくりと言った。
「分かった。知佳のやる気は理解した。頑張ってみなさい」
「まじ? いいの?」
憲武はうなずいた。
思わず顔を見合わせた知佳と千鶴は、自然と手を打ち鳴らしていた。
後悔はしない開演のブザーがなり、会場の照明がふつと消えていく。千鶴はすいませんすいませんと頭を下げながら、チケットに書かれた番号の座席に腰を下ろす。
「ちょっと、パパ。早く、始まっちゃうから」
「そんなに焦らなくても大丈夫だろ。出番は6番目なんだろ?」
「そうだけど、パパが緊張でお腹壊したから遅れたんだからね?」
「仕方ないだろ。むしろお前が図太すぎるんだ」
憲武が隣に座る。小声で話していた千鶴たちだったが、周囲の視線をそれとなく感じて口をつぐむ。
優秀生徒による学内の演奏会。知佳は今、着実に自分の思い描いた道を歩いている。
だがこの先、知佳に何が待ち受けているのかは、親である千鶴たちにも分からない。それでも、今もまだ燃え続けているあの日の熱は知佳の胸に宿っている。その眩しさを信じていくと決めたことに、これまでもこれからもきっと後悔はしないだろう。
ゆっくりと、だが堂々と、幕が開く。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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