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食費は夫婦2人で月2万円、「30代の頃の服が着られる」が自慢…義両親との同居で判明した「驚きの生活実態」

Finasee / 2025年1月28日 18時0分

食費は夫婦2人で月2万円、「30代の頃の服が着られる」が自慢…義両親との同居で判明した「驚きの生活実態」

Finasee(フィナシー)

<前編のあらすじ>

都内の私立大学に事務職員として勤務する金子雄彦さん(仮名)。金子さんは昨年11月に奥さんの晶子さんのお母さまが亡くなるまで、二世帯住宅で25年以上義両親と同居していました。

金子さんにとって長年ストレスになっていたのが義両親との経済的な価値観の違いでした。昭和一桁世代で、東京で過酷な戦争体験をした義両親は、外食やレジャーに振り向きもせず、何十年も前の服を着続ける節約家。

義理のお父さまが亡くなった際には1億5000万円の相続が発生し、税理士に「一公務員が貯められる額とは思えない」と驚かれます。

●前編:【「公務員が貯められる額とは思えない」税理士も絶句…それぞれ1億円以上の遺産を残した義両親の“超絶節約生活”】

食費は夫婦で2万円程度…義両親の質素すぎる生活

私は、婿養子にこそなっていませんが、妻の母親が昨年亡くなるまでおよそ四半世紀に渡り、義両親と二世帯住宅で暮らしてきました。そこで目にしたのは、義両親の質素すぎる生活でした。

食事は100%自炊、出前を取ったり、外食したりする姿を見たことがありません。買い物はスーパーやディスカウントストアでまとめ買いしているので、恐らくはコンビニエンスストアなど入ったこともなかったのではないかと思います。

食卓に上るのは焼き魚や野菜の煮物、自家製の漬物に味噌汁が定番。義父は自宅の庭やベランダで野菜を育てていたので、食費は夫婦2人で月に2万円もかからなかったのではないでしょうか。

着る物にもこだわりはなく、「30代の頃の服が着られる」のが自慢でした。着古して生地がすり減ったり穴が開いたりすると、義母が下から当て布をして修繕していました。いよいよ着られなくなったら雑巾に縫い直して拭き掃除に使うといったあんばいです。

人付き合いにもあまり熱心ではなく、レジャーや旅行といった外出も嫌がりました。義父が熱心に見ていたのはテレビのプロ野球や大相撲の中継で、義母はドラマや図書館から借りてきた本を読むのが楽しみなようでした。

熱心な倹約生活には過去の体験が大きく関係していた

義両親は区役所で働いていた元公務員です。2人合わせて月額40万円以上の年金を受給していたはずですが、とにかく使わないので預貯金の残高は増える一方でした。

8年前に義父が先に亡くなった際には、自宅を含めた相続税評価額が1億5000万円を超え、申告の手続きを依頼した税理士の先生から「区役所の一職員がよくここまで貯めたものですね」と驚かれました。

義母の相続税の申告はこれからですが、義父と同程度を申告することになりそうです。

ここまで倹約に熱心だった背景には、昭和一桁生まれの義両親の戦時中や戦後の過酷な体験があったようです。

義両親は共に東京生まれで、東京大空襲によって親戚や友人などを亡くしています。何よりも過酷だったのは戦時中から終戦直後の食糧難だったと言います。水ばかりの重湯を1日に1杯しか食べられない日々が続いたと聞きました。

そうした中で義両親は物を大切に質素に暮らす術を身に付けたのでしょう。見方を変えれば、究極のエコとも言えます。

しかし、そんな両親に育てられた妻はともかく、田舎から上京して東京で流行のファッションや音楽、レジャーなどを楽しみたかった私にとっては苦痛以外の何物でもありませんでした。義両親や妻の手前、外食や旅行もほとんどできず、好きな洋服を買う回数もぐんと減りました。

父親が「宵越しの銭は持たない」タイプになった理由

私は北関東の出身で、男ばかりの3人兄弟の末っ子として育ちました。私の父親も義両親と同じ昭和一桁世代ですが、生き方や考え方はほとんど真逆です。

父親は郷里の食品会社に勤めていて、定年直前には工場長でした。しかし、大のギャンブル好きで、週末になると地元の競馬場に通っていました。地元だけでは物足りず、新潟や函館まで足を延ばすこともあり、私も何度か連れていってもらいました。

麻雀も好きで、工場の麻雀仲間と年中卓を囲んでいました。工場の給料ですからレートは高くなかったでしょうが、ある程度はお金が動いていたように思います。今となっては“時効”ですね。

父は江戸っ子ではありませんが「宵越しの銭は持たない」タイプで、ボーナスが出た後などは気前よく部下におごりまくり、後で母が渋い顔をしていたことを覚えています。ただ、借金は大嫌いでギャンブルのためにお金の貸し借りをすることは一切なかったと聞きました。

父がそんな生き方を選んだ背景にも戦時中の体験があったようです。

父はいわゆる学徒動員で、軍用機工場で終戦前の数カ月を過ごしました。当時は周囲の大人や学校の先輩が次々と徴兵されていき、自身もいずれは戦場に出る覚悟をしていたそうです。ですから、先のことなど全く考えられなかったと言います。

それが突然敗戦を迎え、戦後の混乱の中に放り出されたことで「人間は大きな運命の流れを受け入れるしかない。それなら、好き勝手に生きた者勝ち」と考えるようになったとか。

そんな父ですから、亡くなった時に残したのは実家の不動産くらいでした。実家を引き継いだ長兄は「登記の費用くらい用意しておいてくれてもいいのに」と笑っていました。次兄や私はビタ一文もらっていませんが、それで文句があるわけではなく、むしろ親父らしいと納得したものです。

私自身は付き合い麻雀くらいでギャンブルは一切しませんが、父の価値観の方が、義両親のそれよりもはるかに共感できるものだったのは確かです。

人間の価値観はそれぞれ

義両親や妻との二世帯生活を通じて感じたのは、人間の価値観はそれぞれ違い、価値観の違いを受け入れて暮らしていくのはなかなか骨の折れる作業だということです。

義両親も妻も誠実で思いやりのあるいい人たちですが、日常生活を送る上では価値観の違いを意識せざるを得ない場面が多々あります。私はアニメの『サザエさん』ふうに言えばマスオさんの立場ですから、そんな時は見ないふり、感じないふりをして義両親や妻に従うしかありませんでした。

不思議なのは、そうした環境で育った息子はまた違う価値観を持っていることです。

昨春から社会人になった息子は、成人後に小遣いを元手にFX(外国為替証拠金)取引を始めてそれなりに稼ぎ、大学3~4年の2年間は私の扶養から外れていました。入社後は新しい少額投資非課税制度(NISA)の口座を開設し、投資信託の積み立てにも励んでいるようです。「目標は自分自身が“稼げる人”になること。一方で、手持ちのお金にも稼いでもらいたいから、当面はアグレッシブなFXと堅実なNISAの両建てでやっていく」と言います。

息子によれば、自分は「ハイリスク志向のお父さん系のDNAと堅実すぎるお母さん系のDNAのハイブリッド」なのだそうです。何だか笑ってしまう物言いですが、確かに一理あるように思えます。

義両親がいなくなったからと言って、義実家流の価値観が大きく変わるとは思っていません。妻もいますし、近くには義両親以上にお金にシビアな義姉一家も住んでいます。しかし、定年を控えて残りの人生もこのまま義実家流の価値観の下で暮らしていくのは正直受け入れがたく、かと言っていまさら“マスオさんの反乱”を起こす勇気もありません。

願わくは、妻が息子に触発されて価値観を変えてくれないかとわずかな期待をつなぐ昨今です。

※プライバシー保護のため、内容を一部脚色しています。

森田 聡子/金融ライター/編集者

日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。

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