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在籍1年でJクラブ消滅「ショックでした」 異例の経験、小野伸二らと共闘…紆余曲折のサッカー人生【インタビュー】

FOOTBALL ZONE / 2024年10月1日 18時30分

■【元プロサッカー選手の転身録】氏家英行(横浜F、大宮、草津ほか)第1回:遠藤保仁らと同期でキャリアスタート

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

 今回の「転身録」は、横浜フリューゲルス、大宮アルディージャ、ザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)でプレーした氏家英行。在籍1年で所属クラブが消滅する事態に直面した一方、遠藤保仁や小野伸二らとも共闘した経験を持つ氏家が歩んだ紆余曲折のサッカーキャリアを振り返る。(取材・文=河野 正)

   ◇   ◇   ◇

 氏家英行の母校、練馬区立三原台中学サッカー部は、都内でもベスト8に入る強豪だった。中学3年生の秋、同級生と後輩の3人で横浜マリノスユースの選考試験に挑んだが、自分だけ落ちてしまった。次に三菱養和SCを考えていた時、横浜フリューゲルスユースの存在を知って受けてみたら吉報が舞い込んだ。

 アスリートとして生きていく人生が、ここで決まった。

 4年制の通信高校に通い、3年時にトレーニー契約(研修生)を結び、卒業後の1998年にプロ契約を交わしてトップチーム昇格。同期にはいずれも1つ年下で、高校サッカーの名門から加入した遠藤保仁、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝がいた。

「同い年でユースから上がれたのは僕1人でしたが、遠藤たちは4人ともU-18日本代表で、自分だけがまったくの無名だったんです」

 Jリーグデビューは98年3月25日の浦和レッズ戦。前半35分に同期の大島に代わり、今で言うアンカーの位置に入った。J1唯一の得点が、第2ステージ第7節の名古屋グランパスエイト(現・名古屋グランパス)戦だった。

 横浜Fは運営母体の1つである佐藤工業が経営から撤退し、98年限りで消滅。横浜Mに吸収合併された。「新聞報道で知りました。在籍1年でなくなっちゃうんですからね、ショックでしたよ」と述懐する。

 遠藤ら同期の4人は、揃って京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)へ移籍。氏家も京都を打診されたが、「試合に出られる自信がなかったし、親も賛成してくれた日本体育大に進んで卒業後は体育教師になることも考えていました」と意外な一面を披露する。

 だが、先発したコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)とのリーグ最終戦でウーゴ・マラドーナの監視役を任され、完璧に抑え込んだ。

 99年にJ2が創設された。参入メンバーである大宮アルディージャが、このプレーを高く評価して獲得を申し出た。大学進学を断念する。

「若いうちに多くの試合を経験するのがベターだし、レベル的にもちょうどいいと判断して、未知の世界に挑戦しました。J2ができていなかったら、大学サッカーに打ち込んでいた可能性が高かったと思う」


現在は東京都シニアリーグでプレーし、トレーナーとしても活動する氏家英行氏【写真:本人提供】

■小野伸二にも「『それは違うだろ』って平気で言えた」

 大宮に移籍した99年というのは、日本が4度目の出場を果たし、準優勝したワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)がナイジェリアで開催された年だ。氏家は予選に当たる98年のアジアユース選手権を経験していなかったが、本番では登録メンバーに名を連ねた。

「ブルキナファソとか海外遠征が終わると成田空港で(チームに)残る人、去る人に分かれたんですが、なぜだか僕は最後まで残ったんですね。後年、フィリップ・トルシエ監督のドキュメンタリーなんか見ると、チームの盛り上げ役として自分が適任だったんだな、って感じます」

 日本は1次リーグを2勝1敗で勝ち上がり、決勝トーナメントではポルトガル、メキシコ、ウルグアイの難敵を連破。出番が1度もなかった氏家だが、エースの小野伸二が警告累積により出場停止となった決勝でお鉢が回ってきた。スペインのシャビに張り付いた。だが異常な暑さに加え、緊張と試合勘のなさから歴史的決戦の記憶が少しもないそうだ。

 それでもこの大会は生涯の財産になった。人間として尊敬できる大勢の仲間と出会えたからだ。

 氏家は「『なんでいるの?』ってくらい試合には絡めなかった」と言って笑うと、「でもふて腐れずにチームを活気づけ、伸二にも『それは違うだろ』って平気で言えた。監督はそこを見ていたんでしょうね。自分はマネジメントのリーダーだった。あの気難しい連中がチームになった瞬間に変わりました」と懐かしむ。

 大宮では世界ユースから帰国後の5月以降、第11節から最終節まで26試合連続フル出場した。当初は右サイドバックが多かったが、2年目からボランチに定着し“つぶし役”として活躍。守備の専門家は在籍6年間でリーグ戦163試合を戦い、J1初昇格に手を貸した04年シーズンをもって契約満了となる。

 そんな折、ヴィッセル神戸は新たな指揮官にトルシエ監督を計画するとともに、大宮を退団する氏家を移籍候補にリストアップした。ところが招請に失敗し、新監督が氏家を構想外にしたことで神戸行きもなくなった。

 だがJ2参入5年目の横浜FCと1年目のザスパ草津からも声が掛かり、日本フットボールリーグ(JFL)ながら、天皇杯で横浜Mとセレッソ大阪を倒して8強入りし、集客力もある草津を選んだ。

 しかし違和感ばかりが募り、モチベーションは全然上がらなかった。何より自分の特長を理解してもらえないのが悔しかった。「色気を出して上手にやろう、キラーパスを出そう、点を取ろうなんて思ったら自分の存在価値はない。僕は相手の攻撃を摘み取るプロですからね。翌年の契約更改の席上、“もっと攻撃参加してほしい”と言われたことで、退団を決意したんです」と振り返る。

■東京都シニアリーグで現在もプレー「サッカーが大好きだから」

 06年はワールドカップが開催されたドイツに渡り、当時3部リーグのクラブと半年契約で合意。アテンドしてくれたのが、かつて浦和レッズに所属した元西ドイツ代表のウーベ・バインだ。ところがテストに合格した翌日、強化責任者が解任されてこの話はご破算になる。

 帰国後、草津の同僚で現在、水戸ホーリーホックコーチの樹森大介から図南SC群馬(現・tonan前橋)を紹介され、スクールのコーチを兼務しながら現役を続けた。図南は当時県リーグ1部だが、「こういうチームをJリーグに上げたら自分の財産になると思った」と説明。この年に指導者資格C級を取得して指南役への道を開き、2年目はコーチ兼任でピッチに立った。

 チームは09年に関東リーグ2部に上がり、翌年1部昇格を果たすとともに氏家はベストイレブンに選ばれた。14年は監督代行としてプレーし、このシーズンをもって引退。理由は群馬からトップチームのヘッドコーチを依頼されたからだ。

「選手時代の思い出は?」との質問に、「フリューゲルでのデビュー戦や初ゴール、天皇杯優勝、それに世界ユースも忘れられない出来事だけど、一番は年を追うごとに成長していく自分を実感できたことです」と答える。

 また、「(プロとしての)現役に未練はなかった?」と問いには、「クラブから求められたものが自分の持ち味とかけ離れたので、全然ありませんね。でもアマチュアとしては未練タラタラなんで、今でもオーバー40で現役ですよ。サッカーが大好きだから」と顔をほころばせた。

 東京都シニアリーグの強豪、レアル東京40で現役続行中である。(文中敬称略。チーム名は当時の名称)

[プロフィール]
氏家英行(うじいえ・ひでゆき)/1979年2月23日生まれ、東京都出身。横浜Fユース→横浜F→大宮→草津→図南SC群馬。J1通算9試合1得点、J2通算189試合0得点。1999年にワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)準優勝を経験。2014年に引退後、群馬のヘッドコーチ、GM補佐などを歴任。2018年度のS級コーチライセンスを取得。21年からトレーナーとしても活動し、パリ五輪レスリング女子62キロ級で金メダルを獲得した元木咲良にも指導。東京都シニアリーグの強豪レアル東京40でもプレーしている。(河野 正 / Tadashi Kawano)

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