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「ボキボキボキと聞こえた」 怪物を“ガラスの天才”にさせた大怪我…一変したサッカー人生「膝が弾けた」【インタビュー】

FOOTBALL ZONE / 2025年1月4日 6時30分

■【元プロサッカー選手の転身録】比嘉厚平(柏、秋田、山形)第1回:「浦和のサポーターになりたい」とサッカーの虜に

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

 今回の「転身録」は、年代別代表時代から将来を嘱望されるも、プロ入り前に両膝に重傷を負い、キャリアを通じて怪我と戦った比嘉厚平だ。“ガラスの天才”とも形容された男は、自身のサッカー人生に何を思うのか。(取材・文=小田智史)

   ◇   ◇   ◇   

 埼玉県越谷市出身の比嘉が、サッカーにのめり込むきっかけとなったのは浦和レッズだった。5歳の頃、親戚に連れられて行った駒場スタジアムの雰囲気に圧倒され、「レッズのサポーターになりたい」という思いが芽生えた。レッズのファンクラブに入会し、年間チケットも購入して試合に足を運んだ。

 越谷市を拠点とする地元の宮本サッカースポーツ少年団に入ると、2000年には柏レイソルU-12のセレクションに合格して新たな一歩を踏み出す。

「宮本サッカースポーツ少年団は、自分の学年が3人か4人しかいなくて、基本的には1つ、2つ上の学年に交じって試合をさせてもらうことが日常でした。レイソルのセレクションは、毎回受けている知り合いに誘ってもらって、一緒に受けることになったんです。当時、近くにあるジュニアチームはレイソルだけで、自分が通える範囲でと考えた時に一番近くのチームでした。セレクションでは自分を出しきれず、受かると思っていませんでした。昔から足は速かったので、おそらく30m走のタイムが良くて合格になった気がします」

 柏レイソルと言えば、アカデミーの選手たちがトレーニングに励むすぐ隣でトップチームが練習し、練習場の隣にはスタジアムもある恵まれた環境だ。それまで、年上に混じって研鑽を積んできた比嘉だったが、当初は「レベルの高さに驚かされた」という。

「レイソルに入って一番衝撃だったのは、指宿洋史(現ウェスタン・ユナイテッド/身長195センチ・85キロ)が見たことないくらい大きくて、強くて、上手くて……。僕は小学5年生の時に入りましたけど、もうその頃には1つ上の学年で飛び級でやっていて、『こんな選手がいるんだ』と衝撃だった。毎日練習についていくのに、ゲームについていくのに必死で、不安でした」

■同期の島川が証言「天才ではなく、正しくは『怪物』」

 柏U-12時代からの同期には指宿、工藤壮人、仙石廉、U-15からは酒井宏樹(現オークランドFC)、武富孝介(現ヴァンフォーレ甲府)、島川俊郎(SC相模原)、山崎正登、畑田真輝らも加わり、のちに柏アカデミーの中でも“黄金世代”と言われる年代。比嘉も周囲に大きな刺激を受けた。

「僕は結構早熟で、小学生の時は大きいほうでした。でも、レイソルに入ってかなり鍛えられましたね。今と違って、遠征に行っても食事面で厳しく、食べさせられた(笑)。昔は喘息持ちの病気がちで身体もすごく細かったけど、食べないとなかなか試合に出られない環境なので、『試合に出たい』という気持ちから家でも食べるようになって。それから身体も強くなって、一気に身長(のちの公称は166センチ)も伸びたので、レイソルの環境のおかげですね」

 比嘉のプレースタイルは、いわゆる「ドリブラー」。スピードを武器に、勝負を仕掛けるタイプだった。

「1対1で勝負して、ゴールしたり、アシストするのが得意なプレーヤーでした。昔からスピードがあったのでずっとFWをやっていて、中学2、3年生でサイドアタッカーになりました。そこから、ゴールというよりも突破してクロスとか、カットインしてパスみたいに、プレーの幅が広がっていきました」

 U-14、U-15、U-16、U-17、U-18、U-19と年代別の日本代表に選ばれ、2006年にはU-17アジア選手権にも出場した比嘉。「少しトゲがあるように聞こえてしまうかもしれないですけど」と前置きしたうえで、「正直、年代別の代表でプレーすることよりも、自チームでプレーすることのほうが難しかった」と振り返る。

「それくらい、レイソルの同期のレベルが高かったんです。代表に行って、帰ってきた時に『自分のパフォーマンスが悪くなっていたらどうしよう』『それ以上にレイソルの仲間たちのレベルが上がっていたらどうしよう』『自分が上手くプレーできなかったらどうしよう』と。不安でいっぱいのまま代表に行っていました(苦笑)。結果で言うと、なかなかタイトルは獲れなかったけど、どんな相手でもほとんどのゲームを支配することができた。内容的にはほかのチームと一線を画していたと思います」

 アカデミー時代の比嘉は、「天才」と称されることが多い。しかし、苦楽をともにした島川は、「正直、天才ではなく、正しくは『怪物』だと思います」と語る。

■運命を変えた2008年の両膝の大怪我

「比嘉は上手いというより凄い。上手さだけで言えば、比嘉以上の選手はほかにもたくさんいたと思います。でも、比嘉にはみんな目が行くというか、華のある選手でした。最初に会ったのは千葉県選抜でしたけど、強くて、速くて、誰も1対1で止められない。パワーとスピードでねじ伏せるので、『こんな凄いヤツがいるんだ』と。(吉田達磨監督が率いた2004年の)ナイキプレミアカップジャパンは決勝で比嘉が決めて優勝したし、クラブユースの関東大会で優勝できたのも比嘉がいたのは大きい。小学6年生の時にスペイン遠征があったんですが、比嘉はスペインの選手たちをチンチンにしたんです。その時から僕は比嘉のイチファンでした。僕らの世代を先頭で引っ張ってくれたのは間違いなく比嘉ですね」

 2007年12月、比嘉は酒井とともに2種契約(アマチュア)でのトップチーム登録が内定。しかし、翌08年1月、U-19日本代表の一員として出場したカタールU-19国際親善トーナメントの準決勝・中国戦でその後のサッカー人生を左右する出来事が起こる。

 延長戦に突入したなかで、相手選手のラフなタックルで右膝を痛めたが、交代枠を使い切っていたため、プレーを続行。すると、試合終了間際にぬかるんだピッチに足を取られ、今度は左膝に激痛が走った。痛みに顔をゆがめ、その場にうずくまった比嘉。数日後、左膝前十字靱帯損傷、左膝半月板損傷、右膝半月板損傷により、全治7か月と診断された。

 比嘉は「それまでも怪我はかなり多かったし、きっと身体のバランスも崩していたのでしょう」としつつ、「起こるべくして起こったのかなと思うし、防げる怪我でもあった気がします」と回想する。

「(2-1と)1点勝ち越したなかで、アディショナルタイムにタックルを食らって、最初に右膝を痛めた。結果的には半月板損傷だったんですけど、様子がおかしいなと思いつつも交代枠も使い切っているし、国際大会の準決勝(という大舞台)で、残り数分というところで、なんとかできなくない痛みだったので、そのままかばいながらプレーを続けていました。そしたら、本当に(試合が)終わる間際のタイミングで反対の左足がグラウンドに引っかかって、結果的に前十字(靭帯)を切る形になって。今までとは違う、例えるなら銃で撃たれたくらいの大きな衝撃で、直感的に『これはちょっとマズい』と思いました。靭帯ですけど、『ボキボキボキ』と聞こえた印象があって、膝が弾けた感じがしました」

 2008年を棒に振る形となった比嘉は、同年11月に翌年度から柏のトップチームに昇格することが決まったが、この大怪我がキャリアの大きな分岐点になるとは、当時はまだ本人も想像していなかった。

(文中敬称略)

[プロフィール]
比嘉厚平(ひが・こうへい)/1990年4月30日生まれ、埼玉県出身。柏U-12―柏U-15―柏U-18―柏―秋田―山形。J1通算1試合0得点、J2通算44試合4得点。酒井宏樹(オークランドFC)、指宿洋史(ウェスタン・ユナイテッド)、武富孝介(甲府)、島川俊郎(SC相模原)、工藤壮人、仙石廉らを擁した柏U-18“黄金世代”のメンバー内でも「天才」と言われたアタッカー。15~18歳の年代別代表に選ばれ、2006年のU-17アジア選手権では優勝を経験した。高3だった2008年1月、左膝の前十字靭帯損傷など大怪我を負い、翌09年にプロ入りするもコンディションが戻り切らずに16年に現役引退。17年から指導者の道を歩み始め、現在は山形アカデミー・ジュニア村山のコーチを務める。(FOOTBALL ZONE編集部・小田智史 / Tomofumi Oda)

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