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もがく23歳が…2年後のW杯で躍動 プロキャリア好転に思わず「ちょっと出来すぎ」【コラム】

FOOTBALL ZONE / 2025年2月3日 6時50分

■鹿島で不遇も…鈴木隆行が歩んだサクセスストーリー

 飛躍のきっかけは、思わぬ形で訪れた。

 1995年に日立工高(茨城)から鹿島アントラーズに進み、プロのキャリアをスタートさせた鈴木隆行が「忘れられないシーズン」と位置づけるのが2000年だ。自身を取り巻く環境が目まぐるしく移り変わり、まさに激動の1年だった。

 プロ6年目を迎えた2000年のJリーグ開幕前、鈴木は鹿島ではなく、川崎フロンターレのユニフォームを着ることを選んだ。かねてから大物外国人フォワードの加入が噂され、また、一学年下の柳沢敦や平瀬智行の台頭もあり、より多くの出場機会を求め、期限付き移籍を決断したからだ。

 鹿島入り後の鈴木といえば、鹿島の創設に深く関わったジーコがオーナーを務めるリオデジャネイロFC(のちのCFZ・ド・リオ)に2度、武者修行に出たり、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に期限付き移籍したり、今でいうところの“育成型移籍”を繰り返すような立ち位置だった。鹿島でのJリーグ出場はトータル5試合に過ぎず(1999シーズン終了時)、燻っていたと言ってもいいだろう。

 新天地・川崎に向かったのは23歳だ。まだ若い。かといってフォワードの4番手、5番手で納得していられる年齢でもない。

「鹿島では思うように試合に出られませんでしたから、とにかく試合に出たいという気持ちが強かったです。実戦経験をもっと積まないと、プロの選手としてどうなってしまうのか。そんな焦りに似た感覚もありましたね」(鈴木)

 川崎ではコンスタントに試合に出て、さらなるステップアップを目指す——。掲げた目標は明快。だが、現実は違った。J1リーグ開幕戦はベンチから試合を見つめ、第2節は13分間のプレーに終わった。第5節でフル出場を果たし、その後、ピッチに立つ機会が増えたものの、第10節以降はベンチ外。当時のJ1リーグは2ステージ制だったのだが、鈴木はファーストステージ15試合中7試合の出場にとどまった。

 セカンドステージに入っても置かれた状況に大きな変化はなく、むしろ悪化したといってもいいかもしれない。川崎の背番号8を身に纏う鈴木の姿はピッチから徐々に遠ざかっていく。悶々とした思いが募っていたであろうことは想像に難くない。

 そんな時、鹿島から復帰の要請が届いた。“超大物助っ人”として話題を振りまいた元ブラジル代表のベベットがわずか3か月でチームを去り、9月のシドニーオリンピックに挑むU-23日本代表に柳沢、平瀬、本山雅志といった攻撃陣が招集されたため、鹿島としては即戦力フォワードの補充が急務となったからだ。


鹿島に戻ってから一気に好転していく【写真:産経新聞社】

■川崎から鹿島へ復帰後、チーム躍進の立役者に

 鈴木自身は「正直、複雑でしたね」と胸の内を明かしつつ、次のように語っていた。

「(初のJ1を戦っていた)川崎はその時下位に低迷していて、何とかチームの力になりたいと思っていても、なかなか試合に絡んでいけない。実績らしい実績を残せないまま鹿島に戻ってしまうのが、自分にとっていいことなのか。やはり悩みました。でも、最後は求められる状況のなかで全力を尽くすしかないと覚悟を決めました」

 後ろ髪を引かれながらも開き直りに近い心境だったのだろう。だが、これがきっかけとなって鈴木のサッカー人生が一気に好転していく。

 2000年8月12日、セカンドステージ第9節のサンフレッチェ広島戦で川崎のユニフォームを着用し、終了間際の4分間をプレーした鈴木は、その18日後、山形にいた。鹿島の一員としてナビスコカップ(現ルヴァンカップ)準々決勝第1戦の横浜F・マリノス戦に臨むためだった。先手を許す展開のなか、スタメン出場していた背番号30の鈴木が後半9分に同点ゴールを決め、チームを勢いづかせ、逆転勝利への弾みとなった。

 9月6日、地元カシマスタジアムに戻っての準々決勝第2戦では、後半のアディショナルタイムに値千金の同点ヘッドを叩き込み、チームの窮地を救った。試合後、興奮冷めやらぬといった表情の鈴木は「鹿島に入って、ようやく仕事ができたかなという気がします」と言葉に力を込め、こう続けた。

「疲れ切ってしまい、守備に戻れなくなっていたので、とにかくゴールに集中しようと、ワンチャンスを狙っていました。ナラさん(名良橋晃)が本当にいいボールを出してくれました。高校生の頃から憧れていたカシマスタジアムで、ゴールを決められて最高です(笑)」

 Jリーグのファーストステージを制していた横浜F・マリノスを1勝1分で退けた鹿島が、ナビスコカップ準決勝に進出。古巣復帰後、いきなり連続ゴールを決めた鈴木は、紛れもなくチーム躍進の立役者だ。不在中の攻撃陣を補って余りあるほどの活躍に周囲から“救世主”ともてはやされた。その勢いはとどまるところを知らず、名古屋グランパスとのナビスコカップ準決勝第1戦でも得点し、同カップにおいて3試合連続ゴールと気を吐く。


日韓W杯のベルギー戦ではつま先ゴールを決めた【写真:Getty Images】

■日韓ワールドカップで歴史に名を残す“つま先”ゴール

 流浪のフォワードが、ついにブレイクの時を迎えた。

 2000年に鹿島はJリーグ史上初の国内3冠を成し遂げている。11月4日のナビスコカップ決勝で、鈴木にとって“古巣”の川崎と激突し、2-0で勝利。「気持ち的に少しやりづらかった」と本音を漏らしつつ、2トップの一角として84分間ピッチに立ち、戦った。ナビスコカップ優勝に一役買った鈴木はニューヒーロー賞を受賞した。

 次なるタイトル戦は12月2、9日に行われたJリーグのチャンピオンシップ。セカンドステージを制していた鹿島は横浜F・マリノスと激突し、1勝1分の末、見事に年間チャンピオンの座を掴んだ。第1戦をスコアレドローで終え、第2戦に鈴木の先制点を口火に3-0で鹿島が勝った。

 そして、シーズンラストを飾る2001年元日の天皇杯決勝は清水エスパルスと相まみえ、取って取られてのシーソーゲームを展開。延長Vゴールで3-2とした鹿島が、ついに国内三大タイトルを独占した。フル出場の鈴木はチーム2点目を決めている。

「ちょっと出来すぎという感覚はありますけど(苦笑)、周りのサポートのおかげで結果を残すことができました。自分以上に頑張っている選手は本当にたくさんますからね。自分が一番だとは思わないけれど、ここまで必死に取り組んできたことが1つ報われたかなと感じています」(鈴木)

 スタメンであろうと、交代出場であろうと、常に100パーセントの力を出し切る。いつだって正念場。それが鈴木の変わらぬ姿勢だった。

 シーズン途中に川崎から鹿島に出戻り、およそ4か月。水を得た魚のごとく生き生きとプレーする新進気鋭フォワードの勇姿が日本代表のフィリップ・トルシエ監督(当時)の目にも止まった。

 2001年4月25日のスペイン戦で、わずか1分間の出場ながらA代表デビューを飾り、6月2日のカメルーン戦では初スタメン&2ゴールを記録し、チームの勝利に貢献。翌年に控える日韓ワールドカップの代表メンバー入りに猛烈にアピールした。

 瞬く間にその名を知らしめたシンデレラボーイのサクセスストーリーはまだまだ続く。

 ほんの数年前まではイメージさえできなかった世界の檜舞台に立っただけではなく、2002年6月4日、日韓ワールドカップ(W杯)のグループリーグ第1戦のベルギー戦にスタメン出場。先手を許した2分後の後半14分、貴重な同点ゴールを“つま先”で決めてみせた。

 高い打点のヘッドではなく、豪快なインステップでもなく、さりげないアウトサイドでもなく、つま先。ディフェンスの背後に出された縦パスに反応し、懸命に走り、目一杯に足を伸ばした。泥臭さを身上とする“らしさ全開”の一発だった。

 実は、2002年に入ってからというもの鈴木は鹿島でも代表でもゴールから遠ざかっていて、同年における自身の公式戦第1号がこのつま先ゴールだった。耳目を集める日韓W杯の初戦で、代表チームにとってのファーストゴールを決める。まさに、事実は小説よりも奇なり。こうした滅多にないエピソードもまたシンデレラボーイに相応しいのだろう。(小室 功 / Isao Komuro)

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