直観力を身につける二つの道[田坂広志の深き思索、静かな気づき]

Forbes JAPAN / 2017年9月13日 17時30分

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直観力とは、いかにして身につくものか? この問いに対して、多くの人々は、直観力とは、「論理」とは対極にある「感覚」の力を磨くことによって身につくものであると考えている。

しかし、それは真実であろうか。そのことを考えさせるのが、将棋の世界で五つの永世称号を得た大山康晴棋士のエピソードである。

冬のある日、将棋会館での用事を終え、大山名人が帰ろうとしたとき、部屋の出口の近くで、若手棋士たちが「詰め将棋」をやっていた。その詰め将棋は、極めて難しいものであり、天才的な資質を持って修練に励んでいる若手棋士たちが集まっても、なかなか解けないものであった。

このとき、大山名人はコートを着ながら、その横を通り過ぎ、出口のところで振り返って、「諸君、お先に」と挨拶をした。そして、そのとき、一言つけ加えた。

「ああ、その手は何手目で、何で詰むよ」

驚いた若手棋士たちが、その後、詰め将棋を解いたところ、果たして大山名人の言葉通りになった。そこで、感銘を受けた若手棋士の一人が、後日、大山名人に聞いた。

「大山先生。先生は、あの何百通りの手を、あの入口まで歩む数秒間に、すべて読まれたのですか?」

この質問に対して、大山名人は答えた。

「いや、手を読んだのではないよ。大局観だよ」

これは、大山名人の持つ、大局を瞬時に把握し、答えを直観的に掴む優れた能力を示すエピソードであるが、では、大山名人は、いかにして、この直観力を身につけたのであろうか。それは、言うまでもなく、生まれ持って身についていた能力でもなければ、ある日突然天から降ったように身についた能力でもない。

これほどの直観力を持つ大山名人もまた、かつて、この若手棋士たちと同様、難しい詰め将棋を前に、そして、実戦の盤面を前に、手を読んで、読んで、読み抜くという極限的な修練を積んできたのであり、その修練を通じて、この直観力を身につけたのである。

すなわち、大山名人は、無数の盤面を前に、考えて、考えて、考え抜くという「論理に徹する修業」を積み重ねた結果、ある段階で、その意識が「論理の世界」を超え、「論理を超えた世界」=「直観の世界」へと入っていったのである。

この機微を、哲学者のヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』という著作の中で、次の言葉によって語っている。

我々は、言葉にて語り得ることを語り尽くしたとき、言葉にて語り得ぬことを知ることがあるだろう。

これを読み替えるならば、次の言葉となる。

我々は、論理にて究め得ることを究め尽くしたとき、論理にて究め得ぬことを知ることがあるだろう。

このヴィトゲンシュタインの言葉が教えるように、直観力を身につけるためには、実は、論理思考に徹することが一つの道なのである。では、論理思考に徹したとき、我々の意識に何が起こるのか。

そのことを教えてくれるのが、やはり将棋の世界の羽生善治棋士のエピソードである。羽生棋士は、かつて七冠を獲得した直後のテレビでの対談において、若手哲学者に「対局中、どういう心境なのですか?」と聞かれ、こう答えている。

「ええ、将棋を指していると、ときおり、ふっと『魔境』に入りそうになるんです」

この「魔境」とは、心理学用語で言われる「変性意識状態」(Altered States of Consciousness)のことであり、直観力や洞察力、大局観など、人間の高度な能力が発揮される意識状態のことである。

そして、この「変性意識状態」に入るための一つの道が、ここで述べた「考えて、考えて、考え抜く」という論理思考に徹する技法であるが、もう一つの道が、論理思考の対極にある、座禅や瞑想という古来伝えられてきた技法である。

されば、この二つの道を同時に歩むとき、何が起こるか。そのとき、我々の能力に、想像もしていなかった変化が起こる。

田坂広志の連載「深き思索、静かな気づき」
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