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久野潤 昭和19年・日本軍の戦い サイパン島・ペリリュー島の戦い 〝玉砕〟後も続いた孤島での絶望的な抵抗「本土への空襲を何とか防げたらと必死でした」

zakzak by夕刊フジ / 2024年8月30日 11時0分

終戦の1年8カ月後、米軍に帰順する永井敬司氏(左端)ら=昭和22年、ペリリュー島(永井氏提供)。(夕刊フジ)

昭和19(1944)年6月のマリアナ沖海戦で日本海軍が敗北したことで、米軍に制海権・制空権を奪われ、サイパン島の防衛は絶望的となった。サイパンは前年9月策定された、いわゆる「絶対国防圏」の一角である。

「訓練の時からずっと、『お前らはこの大砲と命をともにしろ』と言われた。それは勝ち目のない戦いでも変わりません。自分たちが戦うことで、本土への空襲を何とか防げたらと必死でした」

こう筆者に語ってくれたのは、独立山砲兵第3連隊で15センチ榴弾砲の通信手だった岡﨑輝城氏(故人)。敵の迫撃砲の炸裂(さくれつ)で重傷を負って気を失い、捕虜となって奇跡的に生還した。

サイパン島で海軍守備隊を指揮したのは、中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲忠一中将であった。真珠湾攻撃からガダルカナルの戦いまで機動部隊を指揮して大戦果を挙げた南雲長官は、日本機動部隊の壊滅と、絶対国防圏の陥落を見届け、陸軍の斎藤義次第43師団長らとともに7月6日に自決した。

一部将兵が終戦後まで戦い続けたのは、平成23(2011)年公開の映画『太平洋の奇跡』などで知られるところである。

サイパンと同じく、第一次世界大戦後に日本の委任統治領となっていたパラオで、有力な飛行場を擁していたのがペリリュー島であった。昭和19年9月15日、サイパンの時と同様に猛烈な砲爆撃の後、米軍が上陸してきた。わずか南北9キロ・東西3キロの同島を、米国側は数日で占領できると楽観していたが、中川州男大佐率いる守備隊は2カ月半近く徹底抗戦した。

「敵のすさまじい砲爆撃で、山だった所が池になって、池だった所が山になった感じです。敵の上陸後に大隊長そして大隊長代理も次々に戦死して、その場にいた者の『総意』で戦闘を続けました」

歩兵第2連隊第2大隊重機関銃中隊の永井敬司氏(故人)はこう語った。永井氏をはじめ、34人が日本軍「玉砕」後も抵抗を続けた。

この中で、「水戸の2連隊は強くて、心強かった。捕虜には絶対ならないぞ、捕まったら殺されるだろうという感覚がありました」という海軍部隊の見張員、土田喜代一氏(同)は昭和22年4月、敵陣へたどり着き、日本の降伏を確信した。元上官とともに仲間を説得して帰順させ、米国側の戦死傷者が日本側を上回ったペリリューの戦いは、ようやく終わった。

今の感覚では、孤島での絶望的な戦闘の意義を疑う日本人も多いかもしれない。

しかし、米国側は、日本軍の敢闘を称賛したチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官はじめ、日本軍が「天皇の島」を守って最後まで戦ったのだと理解していた。

■久野潤(くの・じゅん) 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。

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