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昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝 吉田拓郎(下)演歌歌手からアイドル、都会の大人の女性まで…さまざまな楽曲を提供 何でもござれのすさまじい引き出しの多さ

zakzak by夕刊フジ / 2024年11月22日 11時0分

吉田拓郎(夕刊フジ)

かまやつひろしの「我がよき友よ」(1975年、吉田拓郎作詞作曲)は当時、新しい宴会ソングとしてみんな輪になって歌ったものだ。かぐや姫の「神田川」(73年)の時代背景と同時期だから、この2曲で「神田川よき友よ」なんて映画ができそうである。

姉の好きな歌謡曲をよく聴いていた吉田拓郎は高校時代、友人に誘われて高校生バンドのエレキギターの演奏を見て「僕もこれでやろう」と決めたそうだ。その後、バンドを結成し、曲を作り始めた。好きな女の子ができるたびに曲を作った。まるでピカソが女性と付き合うたびに作品が変遷するのと似ている。

人気の上昇に合わせて楽曲依頼が増えていった。提供した作品は実に幅広いが、歌手の特異性、方向性があるので作詞は自ら手がけることは少なかった。

フォークバンド「猫」に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し売れっ子作曲家になる。衝撃的だったのは演歌歌手の森進一の「襟裳岬」(74年、岡本おさみ作詞)だ。作曲が吉田拓郎と知って組み合わせに驚いた。

このヒットで音楽業界では「森進一は日本のロッド・スチュアートだ」という人まで現れた。森は演歌歌手なので、演歌特有のコブシ、泣き節ばかりと思い込んでいたが、歌手の力量があれば幅広い可能性を引き出すことができるということを教えられた。

さらに驚いたのはアイドルのキャンディーズにも楽曲を提供したのだ「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」(ともに77年)で、作詞はともにあの「神田川」を書いた喜多條忠だった。

神田川世代の合作だが、〝大人の女性〟としてのキャンディーズの新境地を開いた作品でもある。喜多條から聞いた話では、拓郎から本人に連絡があったそうだ。当時は原宿・表参道通り南の路地にあるお店でよく会っては、時には言い争いもしていたという。

梓みちよの「メランコリー」(76年、喜多條忠作詞)は都会のちょい悪女性がテーマだった。拓郎の突き放すような曲調と梓の男っぽい歌いぶりがピタリとはまった。

演歌からアイドル、都会の大人の女性まで拓郎の引き出しの多さはすさまじい。

(敬称略)

■吉田拓郎(よしだ・たくろう) 1946年4月5日生まれ、78歳。広島県出身。70年、「イメージの詩/マークⅡ」でデビューした。

■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。

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