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海老原清治のNO GOLF NO LIFE プロテストで励ましてくれた3歳下の高校生 「海老さん、何とか通って来てよ!」 …横島由一でした

zakzak by夕刊フジ / 2024年10月2日 15時30分

イラスト・太田秀明(夕刊フジ)

昭和41年(1966年)の1月。僕は隣家の友人、林由一から譲り受けた5番アイアンでゴルフを本格的に始めました。

我孫子GCにはキャディーのバイトで来ていたものの、それからはプロを目指す研修生になったのです。でも、ゴルフは超初心者レベルですから、スライスボールしか出ない。ゴルファーなら誰もが、この症状を経験していますよね。

前年4月に研修生となった先輩たちと比べても技量は雲泥の差があり、練習ラウンドでは研修生28人中いつもビリ。ヘボさが際立つばかり。「たった9カ月しか違わないのに…」と不思議に思ったり、悔しさを覚えたりしました。

それで「どう振ったらボールを真っすぐ飛ばせるのか」と先輩研修生の由一に尋ねたのです。

「(ダウンスイングで)左ひじをおへその前に着けてクラブフェースを返してみたら」とアドバイスを受けました。言われたとおりにスイングしてみるとボールをしっかり捉えられる。ストレートボールを打てるようになったのです。

へそ前に着けた左ひじをターンさせる「へそターン」によって、フェースローテーションを覚え、フェース向きがショットの方向性を司っていること体感したのでした。

それから必死の練習で、3年後の昭和44年10月に日本プロゴルフ協会(JPGA)のプロテストを、2度目の受験で合格することができました。我孫子GCからは3人の研修生が挑み、いずれも合格したのです。

この時、習志野CCの研修生だったジャンボ(尾崎将司)も受験生の一人でした。プロ野球界からゴルフ界に転向した元甲子園優勝投手だっただけに当時でもメディアが大勢掛けつけ、一挙手一投足を取材していました。

無名の僕はそんな光景を横目に自分のゴルフに徹することだけを考えていました。プロテスト受験コースは戸塚CCで、最終9ホールを1アンダーの35で回れば合格できる位置につけていました。

当時、プロ転向を目指す顔見知りの研修会メンバーだった3歳下の高校生がスタートティーまで足を運び、声を掛けてくれました。

「海老さん、何とか通って来てよ!」

横島由一でした。

「わかった! 35で回ってくるから」と言ってスタートしたのでした。

横島にとっては自分が所属する研修会から一人でも多くの合格者が出れば、受験枠が広がるという思いもあったのかもしれません。後輩のためにも合格しなければならない。それがモチベーションを高めたのでした。 (構成・フリーライター伝昌夫)

■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳でプロテスト合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王に輝く。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。174センチ、74キロ、血液型A型。我孫子ゴルフ倶楽部所属。

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