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選抜準Vで人気沸騰…怪我で離脱も強制“顔見せ”登板 痛み止め注射6本で「夏はもう無理」

Full-Count / 2024年5月30日 6時50分

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

■牛島和彦氏は選抜から2日後の定期戦に登板…腰痛で投球不能に陥った

 人気者のつらいところだった。1979年選抜大会で浪商(大阪)は準優勝を果たしたが、大会2日後にまさかのアクシデントに見舞われた。エースの牛島和彦投手(元中日、ロッテ、現・野球評論家)は、腰を痛めて投球不能状態に陥った。大阪・北野高との定期戦に、1イニングだけ“顔見せ登板”したところアクシデント発生。さらに治りかけで宮崎での招待試合に登板し快投したものの、故障悪化で夏に向けて大ピンチを迎えた。

 選抜での牛島氏は、延長13回4-3でサヨナラ勝ちした準々決勝の川之江(愛媛)戦での221球をはじめ、多くの球数を投げたうえに連投の極限状態でマウンドに上がり続けた。7-8で敗れた決勝の箕島(和歌山)戦は、まさに気力だけでの投球だった。同時に注目度は爆上がり。“ドカベン”香川伸行(元南海)捕手とともに細身のイケメンエースとして人気も過熱したが、それが大会後に故障を誘発させることになってしまった。

「選抜が終わって中1日で北野高校との定期戦があったんです。で、そこで投げてほしいと言われました。僕は選抜で700球くらい投げていたし『無理です、放れません』って言ったんですけど、今まで(浪商が)弱い時もやってきた定期戦だし、急に準優勝したから投げさせないわけにはいかないとか言われて……」。人気者ゆえに休ませてもらえなかった。1イニング限定の顔見せ登板だったが、無理がたたって腰を痛めてしまった。

「投げ終わった後はもう駄目でした。アレーって感じでした。じーっとしていても腰が痛かった。選抜で連投して、終わって1日休んだじゃないですか。逆にずーっと投げていたらよかったのかもしれない」。緊張状態MAXの甲子園を終えて、一息ついた。体も緩ませたところでのマウンドは、それまでとは違ったのだろう。浪商は春季大阪大会に優勝、近畿大会も4強入りしたが、その間、牛島氏は腰痛治療のため、離脱を余儀なくされた。

「投げていなかったし、練習もしていなかったんですが(腰痛が)ちょっとだけマシになった頃の5月に宮崎で招待試合があったんです。招待されて行くわけですけど、宮崎ではテレビ放送があるということで、また、投げないわけにはいかないとか言われたんです。『まだ腰は痛いし、無理です』って言いましたよ。でも結局投げることになって……。そしたらノーヒットノーランをしたんですよ」

 テレビ中継された中、無理しての登板で快投。さすがスターと言える結果だったが、牛島氏自身はそれどころではなかったという。「痛い中で投げたら、また腰がおかしくなって……。これで夏はもう無理だなって思いました。正直、甲子園も諦めていました」。しかし、周囲の見方は違った。「練習もろくにせずにテレビ中継の試合でノーヒットノーランをして、あいつは普段、手を抜いているとか、なんやかんやといらん噂が流れ始めたんですよ」。

■夏の大阪大会はさらしを巻いて登板…快投を続け甲子園切符を手にした

 牛島氏のヤンチャなイメージはそんなところからも広がっていったようだが、エースの腰痛は浪商ナインにとって夏に影響を与える一大事。「僕は同級生とかにも『もう夏には間に合わないわ』って言っていたんですけど『何とか投げてくれよ』みたいな話になって、6月くらいに痛み止めの注射を腰に6箇所うちました。それで軽くですけど練習も徐々に……」。だが、夏の大阪大会までに万全にはならなかった。

「僕らの時代、コルセットとかなかったので、さらしを腰に巻いて固めて、動かさないようにして投げました」。2回戦から出場の浪商は河南に2-0で勝利、3回戦の桜宮も3-0で下した。「河南戦は10安打くらい打たれたと思いますよ。それで完封。次も完封。また、みんな(腰痛のことを)信用してくれないんですけどね」。牛島氏は痛みと闘いながら必死に投げているだけなのに、結果を残せば“腰痛はホントか”と疑惑視されていたそうだ。

 それほど、この大会の牛島氏は好投の連続だった。4回戦の豊中戦は9-2だったが、この2点は1学年下の投手が失ったもの。5回戦の成城工9-0、準々決勝泉南7-0、準決勝北陽2-0と、この時点まで1点も許さなかった。「ベスト8くらいから連投になってきたんですけど、その頃に何か薬が効いたのか、さらしを巻かなくても投げられるようになったんです。とにかく体を張って投げて……。決勝なんかはもうボロボロでしたけどね」。

 決勝は小早川毅彦内野手(元広島、ヤクルト)らを擁するPL学園との対決となった。結果は9-3で勝利。浪商が初回に5点を先制。牛島氏は3回までに3点を失ったが、10安打を浴びながらも4回以降は点を与えなかった。「シングルヒットはOKって感じで低めに投げようと思って……」。小早川には3安打を許したが、いずれも単打。「タケ(小早川)にシングル3本だったら御の字でした」とも振り返った。

「PLには1年(1977年)の秋の近畿大会で勝ったけど、あれは甲子園を決めてからの試合でしたからね。甲子園をかけた試合で勝って、僕からすると初めてPLに勝ったって感じでしたね」。ただし、こんなことも言う。「あの時、PLは球場にギリギリで来たんですよ。後で聞いたら渋滞に巻き込まれて焦っていたらしいです。僕らはそんなことを知らないからどこかで練習してきたのかなと思っていましたけどね」。それも含めて浪商の流れだったということだろうか。

 牛島氏はしみじみとこう話した。「大阪を勝ち上がるのはやっぱり大変ですよ。あの当時、8試合で下手したら5連投くらいしないといけませんでしたからね。僕の場合、腰は駄目でしたけど、肘、肩が大丈夫だったのがまだよかったんでしょうけどね」。選抜準優勝以降、騒がれて、騒がれて、コンディションも最悪の状態になりながらもつかんだ夏の甲子園切符。ここまでの道のりだけでも、いくつもの山を乗り越えた気分だったに違いない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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