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抑えの重圧で体に異変…円形脱毛症に「もう辞めよう」 戦力外覚悟で直訴した配置転換

Full-Count / 2024年5月26日 7時10分

横浜時代の山口俊氏【写真提供:産経新聞社】

■山口俊氏は入団3年目に中継ぎへ配置転換「先発に戻れると思っていました」

 DeNA、巨人などでプレーした山口俊氏は横浜(現DeNA)入団3年目の2008年にリリーフへ配置転換、2009年からは守護神として活躍した。抑えとしての重圧で、体に“異変”が起きたこともあったという。救援を任されながらも先発への思いは断ち切れず、2014年には妻からの後押しもあり、「どうせクビになるなら」と首脳陣に先発復帰を直訴し、再び輝きを取り戻した。

 高卒1年目から先発機会をもらっていた山口氏だったが、立ち上がりが悪い課題を改善するため、さまざまなシチュエーションを経験させようと2008年にリリーフへ配置転換となった。その頃は「先発に戻れるものだと思っていました」と振り返る。

 まずは2軍で調整。9月から1軍で登板すると16試合で防御率0.76と立派な成績を残し、翌年からは勝ちパターンの一角を任されるように。途中からはクローザーへと“昇格”していた。

「いいポジションで投げさせてもらうにつれて、1つのアウトの重みを感じるようになりました。やればやるほど難しさを感じました。特に抑えはひっくり返されたら試合が終わるので」

 横浜の守護神といえば4年連続セーブ王に輝くなど1998年日本一の立役者で、日米通算381セーブを残した佐々木主浩の印象が強い。「偉大な抑えの先輩がいた。ファンの方はそこを追い求めるのでプレッシャーにはなりました。ましてや勝ちゲームも少なかったので、1勝の重みも違いました」。山口氏が抑えを任されていた時期は「暗黒時代」と称された低迷期。勝っているシチュエーションでの登板機会も限られていた。

■2軍降格で投手コーチに直訴「先発がしたいです。やらせてください」

 抑えを任されて数年後、突然、体に“異変”が生じた。「ある時ランニングをしていたら、先輩から『お前“円形”できているぞ』と言われました」。左側頭部に円形脱毛を発症していたという。「『あ、本当だ』みたいな。自分自身、ストレスを抱えていたとは思わないんですけど……特にショックはなかったです。気にはしませんでした。いつの間にか治っていました」。ハードなポジションで、知らぬ間に“負担”が蓄積されていた。

 抑え5年目となった2013年は7セーブに終わり、迎えた2014年も開幕から安定した成績を残せず5月に2軍行きを通達された。「もう野球を辞めようと思っていました。多くは言えないけど、当時は思い通りにいかない成績や球団に対して思う部分がありました。自分のせいですけど、他人のせいにしてしまっていた自分もいた。なんでこんなきついことをしなくちゃいけないんだろうと」。精神的にも疲弊し、木塚敦志2軍投手コーチに抱えていた思いをぶつけた。

「純粋に『先発がしたいです。やらせてください』と。このままなら自由契約。どうせクビになるならやりたいことを伝えようと思いました」。入団時からこだわっていた先発への復帰を直訴した。木塚コーチは「分かった。俺もちゃんと(チームに)話すから、お前自身も、もう1回自分の野球の取り組み方を見直せ。周囲が納得する姿をみせよう。行動で示しなさい」と受け止めてくれた。

 翌日から朝一番で2軍練習場でランニング。「それがなんなのかという話ですけど、目に見えるアピールも大事。そういう部分から変えました。他のコーチも本気なんだなというのを感じ始めてくれました」。6月から先発として17試合で8勝5敗の成績を残してシーズンを終えた。

 実は先発復帰への直訴は、当時は結婚前だった妻が背中を押してくれたという。退団も考えていた胸中を伝えると「やりたくてもできない仕事なんだよ。辞めるんだったら我慢せずに最後自分がやりたいことをやった方がいい。だって辞めることになってもいいんでしょ? それなら思いを伝えての残り半年なら後悔しないんじゃない?」。先発に復帰した山口氏は再び躍動した。野球人生の運命を変えた直訴だった。(湯浅大 / Dai Yuasa)

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