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守護神に心無い「金出すから行ってくれ」 トレード通告に激怒…許せなかった中日フロント

Full-Count / 2024年6月10日 6時50分

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

■1986年12月23日、牛島和彦氏はロッテへのトレードを通告された

 元中日投手の牛島和彦氏(野球評論家)の野球人生で、最大の衝撃はやはり1986年12月23日に通告されたロッテへのトレードだろう。その年の10月に、もっとも慕っていた先輩・星野仙一氏が中日監督に就任。主力投手として気合を入れ直していたところでの“まさか”だった。一時はトレードを拒否しての引退も口にしたほどだったが、そう言ったのにも理由があったという。そこから気持ちを切り替えての移籍了承。まさに激動だった。

「あの日は御殿場で12球団のゴルフがあって(中日外野手の)大島(康徳)さんを乗せて車で帰って名古屋で降ろして、僕はそこから(オーバーホールで)下呂温泉に向かい、着いたら球団から電話がかかってきて『名古屋に帰って来い』って『何の要件ですか』と聞いたら『それは言えない』みたいな。御殿場から名古屋、名古屋から下呂、下呂から名古屋ってどれだけ車運転させるねんっていうのはあったんですけど、まぁまぁ薄々はわかりますよね」

 1986年のオフは、稲尾和久監督を解任したロッテ球団への不満をぶちまけた落合博満内野手のトレード騒動が連日、マスコミを賑わせた。トレード先は巨人で決まりというムードさえ漂っていたなか、中日・星野監督が「巨人に獲られてはいけない」と言い出した。11月の浜松秋季キャンプ時には「このオフのトレード補強は考えていない」と公言していた闘将を“心変わり”させるほどの事態だった。

 そんな星野中日の動きが報じられたのは12月20日。交換要員として小松辰雄投手や牛島氏の名前も出てはいたが、さすがに看板選手は出さないだろうとの見方が大半でもあった。牛島氏もその報道は知っており、12月23日の御殿場からの帰りの車中で「大島さんに『トレードになったら、どうします?』って聞いたら『25歳だったら俺は行くかなぁ』って。その時の僕は25歳だったんでね」。もっとも、それも、たまたまそういう話になったにすぎなかった。

 それだけに“名古屋に戻って来い”コールはまさかだった。指定された名古屋観光ホテルに着くと、ロッテへのトレードを通告された。「その時の僕の気持ちとしたら、1年目からずっとやってきていたじゃないですか。変な話、無駄飯食ってませんよね。で、俺なのって思いがありました。肘が痛くて、薬飲んで、サポーター巻いて、優勝もしてとか、いろいろやってきたのにトレードなのっていうのがありました。それはどうしても引っかかりました」。

■口に出した引退「金出すからはないでしょ。やめますわ」

 夜の名古屋観光ホテルには報道陣も詰め掛けていた。そんな中での通告だった。「『今すぐ返事しろ』って言われたんですよ。マスコミも待っているし、12月23日だし、記者会見もセッティングしていたのかどうかは知りませんけどね。そりゃあないだろうって思った。だから言ったんですよ。『僕らは商品ですよ。でも商品は商品ですけど、商品の前に人ですから、もうちょっと言葉ってありませんか』ってね。その日は考えさせてくださいと言って帰りました」。

 3冠王3度(1982年、1985年、1986年)の落合に対して、中日は守護神・牛島氏のほかにレギュラー二塁手の上川誠二内野手、若手成長株右腕の平沼定晴投手、先発とリリーフのどちらもこなした左腕・桑田茂投手の4選手を放出。1対4というのも牛島氏のプライドを傷つけたが、球団はその日のうちに中山了球団社長らが場所を名古屋国際ホテルに移して、牛島氏が返事を保留しているなかでトレードを事実上発表した。

 マスコミに騒ぎをキャッチされていたこともあってのことだったが、ニュースでも流れて、牛島氏にしてみれば当然、面白い話ではなかった。その上「球団から電話があって『トレードで行ってくれ、お前が行かなかったら小松を出さないといかん』と言われたので『それは俺には関係ない話』って言ったら『お金を出すから行ってくれ』って。これにカチンと来て、ちょっともめたんですよ。『金出すからはないでしょ。やめますわ』って」。

 牛島氏は完全に態度を硬化させた。「今までの俺の貢献はどうなのとか、あんな痛い思いをして投げてきて、何の評価もしてくれないのってなるじゃないですか」。この段階では真剣にやめることを考えていたそうだ。12月24日。「(担当スカウトの)法元(英明)さんや(女子プロゴルファーの)森口祐子さんの旦那さんの関谷(均)さんとか、お世話になっている人がみんな家に来てくれて、いろんな話をしてくれたんですけど、僕はもう熱くなっていましたからね……」。

■12月25日未明に星野監督と2時間の会談…午後に移籍を了承

 引退の2文字が大きくなっていた。「法元さんは『ユニホームが変わってもお前の投げている姿、また見たいなぁ』みたいなことを言ってくれたんですけどね……」。25日午前2時に牛島氏は星野監督の自宅を訪ねた。「話をしようと呼ばれたのでね」。お互いネクタイをしての正装で2時間ほど話し合った。「先輩として、監督として、個人的な意見とかも聞いた。感情的にはなりませんでした。自分の気持ちも伝えました。納得できないのはこういうところですとかもね」。

 結論を出さずに星野邸を出た。その日の午後に牛島氏は会見して移籍を了承したが「星野さんは会場の後ろの方にいました。僕が何を言うかはわからないままね」。牛島氏がロッテ入団会見のために東京に向かう時、名古屋駅に星野監督が見送りに来た。「ありがとうございます、はおかしいと思ったので『落合さんのお迎えですか』って言ったら『バカもん!』って。それでもうわだかまりはないってことですよ」。

 星野監督も、かわいい後輩の牛島氏をできれば出したくなかった。監督就任当初「牛島は先発で意外とよくやっているんだよね」と言い、中日に残していれば先発転向を本格化させることも考えていた。しかし、あの時はやはりロッテの主砲・落合を巨人にどうしても獲られたくなかった。動き出したら止まらなかった。それこそ断腸の思いでの牛島放出だった。

 牛島氏は移籍了承の理由について「やっぱり抑えのエースは2番目、先発ローテーションのエースがNo.1。そのポジションになれなかった俺が悪かったのかなぁって考えた」という。中日・牛島からロッテ・牛島へ。気持ちを切り替えてトレードを発奮材料にすると決めた。新天地で「必ず成績を残す」と誓い、愛着があったドラゴンズから旅立った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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