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練習中に救急車で緊急搬送 押しつぶされた監督の責務…医師が告げた「ストレスですね」

Full-Count / 2024年6月16日 6時50分

横浜監督時代の牛島和彦氏【写真:産経新聞社】

■牛島和彦氏は横浜監督を2年で退任…続投要請も固辞した

 元中日、ロッテ投手の牛島和彦氏(野球評論家)は2006年シーズン限りで横浜(現DeNA)監督を退任した。その年は最下位。4月から下位に低迷し、浮上できなかった責任をとって球団に辞意を申し入れ、シーズン中の9月3日に発表した。監督生活は2年で終了となったが、球団から3年目への続投を求められた中での決断でもあった。「今のままで次の年に行っても、選手がかわいそうと思った」という。

 3年連続最下位だったチームを引き受け、就任1年目は3位に浮上させた牛島氏だが、2年目は苦しい戦いが続いた。1勝1敗の開幕3戦目から1分を挟んで6連敗を喫するなど、4月は7勝14敗2分。5月も8勝18敗と大きく負け越した。6月は13勝9敗と巻き返したが、序盤の借金が大きすぎた。7月終了時点で最下位。8月に入ってもチーム状態は好転せず、この現実を受け止めて、牛島氏は2年目での退任を決意した。

「僕が(監督)1年目に思い切ったことをやって、それによって出てきた選手も何人かいて、それを何とか2年目でもって思ったんですけど、うまく回らなかった。他にもいっぱい選手がいればいいですよ。でも、そうじゃないから手の打ちようがなくなってもくる。それなら、新しい監督になった方がまた思い切ったことができて、状況も変わるんじゃないかと思ったんです」

 2年契約の2年目。大きな補強もなく、戦った結果でもあった。「正直な話、もう1年って話もありました。ちょっとでもそれでいい状況にいくのならやってもいいんでしょうけど、今のままなら、もう1年やっても思い切ったことはできない。それでは選手がかわいそうと思いました。監督が代わって、選手もまた、よしっていうふうになっていけば、その方がいいんじゃないかってね」。


中日、ロッテで活躍した牛島和彦氏【写真:山口真司】

■練習中に倒れて病院に搬送されたことも…医師は「ストレスですね」

 退任の直接的な理由ではないが、自身の体調も決して万全ではなかったという。「1年目か2年目かは忘れましたけど、1回、練習日に具合が悪くなって、ひっくり返って救急車で運ばれましたからね。病院で検査したら『どこも悪くないですね、ストレスですね』と言われたんですけどね。まぁ、しんどかったのはしんどかったですね。いろんなことをずーっと考えていましたから。なかなか寝れなかったし、爆睡はできなかったですね」。

 しかしながら、やれることは精一杯やったし、選手はもちろん、コーチ陣にも感謝している。「ブルペン(担当)に置いたロッテでピッチャーだった吉田(篤史投手コーチ)は僕の気持ちがわかるんですよ。たぶんここはピッチャーを代えるだろうなとか、引っ張るだろうとかもね。ロッテの時にバッテリーを組んでいた福沢(洋一作戦兼バッテリーコーチ)は配球とか僕の攻め方、考え方を知っていたし、僕の右腕みたいになってくれました」としみじみと話した。

 さらにはこんなことも。「選手みんなに平等にチャンスをやろうと思ったんですけど、やっぱり平等とはいかなかったですね。でも、ほとんどの選手を1軍には上げたと思う。東大から来た松家(卓弘投手、2004年ドラフト9巡目)が『僕、上げてもらっていない』というから『お前は怪我ばかりしていたからだろ』なんて言いましたけどね」。ちなみに松家は牛島体制下では2005年8月13日と9月9日に2度、1軍登録されたが、いずれも登板なしで抹消となっている。

 2年間の監督生活。「外国人がいい選手じゃなければ、日本の若い選手を育てようと思いましたね。内川(聖一内野手)、村田(修一内野手)、吉村(裕基外野手)だのをどんどん使っていってみたいな……」と牛島氏は振り返った。そして目を細めた。「でも、まぁ、ホント、みんなよくやってくれましたよ。厳しいことも言ったりしましたけどね」。何ものにも代え難い貴重な2年間だったのもまた事実だ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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