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500球の投げ込み「嫌だった」 1年目から“酷使”…悲鳴を上げた右肘「これでもう終わり」

Full-Count / 2024年6月19日 6時50分

ヤクルトなどでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

■伊勢孝夫氏は投手で入団も怪我続き…ジャンボ尾崎に被弾して“失格”となった

 ジャンボに浴びた一発が転機になった。伊勢孝夫氏(野球評論家)は1963年に三田高(現・三田学園)から投手として近鉄に入団した。だが、1年目のキャンプで右肘を痛めるなど、怪我にも泣かされ、結局、1度も1軍のマウンドに上がることはなかった。4年目の2軍戦で、のちにプロゴルファーとなる西鉄・尾崎正司(プロ野球時代の登録名)投手に本塁打を浴びて“投手失格”の烙印が押されたが、結果的にはそれが野手転向の道につながったという。

 伊勢氏は甲子園出場こそなかったが、三田高時代には兵庫県内で評判の好投手だった。まだドラフト制度がない時代。近鉄・江田孝スカウトから声がかかり、プロ入りを決断した。しかし、スタートからいきなり暗雲だった。「キャンプのブルペンで(1961年の)新人王の徳久(利明)さんと前の年(1962年)に(最多勝の)28勝した久保(征弘)さんの間で投げたんですが、2人ともすごい球で、負けてたまるか、と思って力んで投げたら肘がパンクしたんです」。

 これで出遅れたのがケチの付け始めだったかもしれない。肘が治ると1軍練習に打撃投手として声がかかるようになったが、これがまた“激務”だった。「私はコントロールがよかったので、よく呼ばれたんですけど、毎日1時間くらい投げるんですよ。主力の関根潤三さんとかブルームとかを相手に500球は投げていたと思う。それが嫌でねぇ。2軍の練習でピッチングしたら呼ばれないかと思って投げたんですけど、それでも上に呼ばれてまた投げたりで……」。

 当時は当たり前のように行われていたそうだが、それだけ投げれば、やはり体に負担はかかる。「それでまた肘を痛めました」。そんな怪我続きもあって、1軍には打撃投手として手伝いに行くことはあっても、選手として上がることはなく、4年目(1966年)を迎え、運命の一発を浴びた。「4年目の5月だったと思う。平和台での西鉄との2軍戦でジャンボ(尾崎)にどでかいホームランを打たれて監督に呼ばれて……。あれが私のピッチャーとしての最後です」。

■契約交渉で野手転向の打診…「辞めるのを辞めたんです」

 西鉄・尾崎は伊勢氏よりも2学年下で当時プロ2年目。投手登録ながら打撃センスも高かった。「覚えたてのスライダーを投げたら、曲がらなくてスーッと真ん中に入って、それを打たれた。あれでピッチャーはクビになりましたね。野手も少なかったし、もうピッチャーで出ることはなくなり、サードを守ったりするようになりました」。プロゴルファーに転向して大成功するジャンボ尾崎が伊勢氏の投手人生に引導を渡したのだ。

 投手失格の烙印を押された伊勢氏は「これでもう終わり。契約の時に辞めますというつもりだった」という。ところが「辞めます」という前に球団から野手転向の打診があって、また流れが変わった。「『1年でも2年でもいいからとりあえず一生懸命、野手をやってみろ』と言われて、まぁ打つ方も好きだったし、1回やってみようとなった。それで辞めるのを辞めたんです」。プロ野球人生を終えかけたところからの“大逆転”だった。

 しかも、この野手転向によって伊勢氏は近鉄のクリーンアップを打つなど飛躍していくのだから、大きなターニングポイントになった。そのきっかけでもあるのが平和台でジャンボに打たれた一発。「私がヤクルトのコーチの時だったかな、1度(ゴルフの)トーナメントにジャンボを応援しにいったことがあった。ジャンボは私のことを覚えていましたよ。『伊勢さん久しぶり』とか言われましたから」。伊勢氏にとって忘れられない人でもある。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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