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朝4時にスナックへお迎え…守備位置では「ゲーゲー」 「あぶさん」モデルの酒豪伝説

Full-Count / 2024年6月23日 6時50分

近鉄などでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

■伊勢孝夫氏は10年目に規定打席到達…緩慢守備で中堅から一塁へ配転された

 よく飲んだという。野球評論家の伊勢孝夫氏は近鉄時代のプロ10年目(1972年)、117試合、打率.257、14本塁打、48打点の成績で初めて規定打席に到達した。主にクリーンアップを任され、数字以上の勝負強い打撃が光った。同時にグラウンド外では酒好きでも知られていた。水島新司氏の名作漫画「あぶさん」の主人公で、酒豪の強打者・景浦安武のモデルである永淵洋三外野手とは名コンビの飲み友達でもあったそうだ。

 1972年の伊勢氏は、4月8日の開幕ロッテ戦(東京)に「5番・中堅」でスタメン出場した。開幕4戦目の4月16日、西鉄とのダブルヘッダー第1試合(藤井寺)では西鉄・高橋明投手から本塁打を放つなど、4打数3安打2打点。近鉄打線において、その存在感はどんどん増していった。ただし、守備位置は5月以降、センターではなく、ファーストが中心。開幕時にファーストだった小川亨内野手がセンター、伊勢氏がファーストに入れ替わった。

 これについて伊勢氏は苦笑しながら、こう明かす。「東映戦で白仁天(外野手)がセンター前に打ったんです。私はヒットと思って、ゆっくり出ていって捕ってボールを投げようとしたら、もうセカンドまで行かれていたんですよ。走らないだろうと私が勝手に思ってしまって……。監督が出てきて、その試合はそれで交代です。まぁ、そういうことなどもあって、私のセンターはなくなったんですよね」。

 投手から野手に転向したプロ5年目(1967年)以降、伊勢氏は内野手登録でファーストがメインポジションだったが、この10年目の1972年に初めて外野手登録されていた。その登録は12年目の1974年まで継続されたが、実際はファーストを守るケースが多く、外野を守る場合でもセンターではなく、ライトが中心。これには白仁天との一件も関係していたわけだ。

■「あぶさん」の主人公のモデル…永淵洋三とは“名コンビ”だった

 もっとも“センター失格”は伊勢氏にとってはむしろよかったのかもしれない。打撃面では、より勝負強さに磨きがかかり、結果も出していったのだから……。そんな時期に、よく一緒に行動したのが2歳年上の永淵外野手だったという。「あの当時、近鉄のキャンプは宮崎・延岡でやっていた。まぁ、今だから言えますけど、毎朝4時くらいに宿舎の近くのスナックに行くと、永淵のおっさんがいるんですよ。そこに私が迎えに行って、また飲んで、連れて帰るという日々でしたね」。

 その頃の伊勢氏にとって酒はパワーの源みたいなものでもあったようで、キャンプではそれこそ毎晩のように繰り出し、最後はその店で「永淵のおっさん」と合流して終わるというのがパターンだった。「それまで、飲んでいる場所は2人とも違ったんですけどね。最後はいつもね……。私もよう飲んでいたけど、あのおっさんの酒はホントすごかったわ」。とにかく、「あぶさん」モデルの飲みっぷりはハンパではなかったそうだ。

 前の晩に痛飲して臨んだデーゲームではこんなことがあったという。「いつの試合だったか、私はファーストを守っていたんですけど、後ろを見たら、ライトを守っている永淵のおっさんがゲーゲーやっているんですよ。これはホントの話ですよ。守っている位置だけ、芝がはげて、土みたいなところがあったんですけど、そこに戻して、足で土をかけて……。そういう時代ですよ。今だったら大変でしょうけどね」。

 永淵氏は1967年のドラフト2位で東芝から近鉄に入団。プロ1年目の1968年は投手と野手の二刀流だったが、1969年からは野手に専念し、いきなり東映・張本勲外野手とともに打率.333で首位打者に輝いた。1971年、1972年も近鉄の3番打者として打率.300をマーク、1972年は22本塁打を放った。その後、日本ハムに移籍して1979年シーズン限りで現役を引退したが、伊勢氏にとって「永淵のおっさん」はいつまでも強く印象に残っている先輩だ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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