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屈辱の指名漏れ…思わずこぼした涙「プロはまだ早いと」 大阪桐蔭右腕が忘れぬ悔しさ

Full-Count / 2024年6月23日 7時10分

U-18侍ジャパン時代の川原嗣貴【写真:川村虎大】

■社会人Honda鈴鹿2年目…都市対抗や日本選手権でアピール狙う

 はた目には栄光に包まれた高校時代に見えるが、忘れられない苦い思い出が2つある。社会人のHonda鈴鹿の川原嗣貴(しき)投手は、大阪桐蔭高校時代に2021年の明治神宮大会、22年春の選抜、22年秋の栃木国体で“3冠”を達成した。野球日本代表「侍ジャパン」U-18にも選ばれたが、決して順風満帆ではなかった。

 1つめは、高3(2022年)の夏の甲子園で優勝できず、“4冠”を逃したことだ。川原自身は3回戦に先発し、東東京・二松学舎大付高を6安打完封。準決勝、決勝に登板する予定だった。ところが、川原を温存した準々決勝で、チームは敗退してしまう。

 山口・下関国際高に対し、4-3とリードして9回の守りを迎えるも、2番手として5回から登板していた1学年下の前田悠伍投手(ソフトバンク)が逆転2点タイムリーを浴び、そのまま敗れた。「7回くらいから、まずい空気が流れていました」と振り返る。居ても立っても居られず、試合終盤に自らの意志でブルペンに向かい肩をつくったが、結局出番はなかった。

「下級生に任せてしまった自分の力のなさを感じました。本当に悔いが残ります。夏の甲子園については、あまり思い出したくないけれど、今でも後輩たちが甲子園で戦っているのを見たりすると、自分たちの頃を思い出してしまいます」と吐露する。

 2つめは、プロ志望届を提出したものの、ドラフト会議で指名されずじまいだったこと。悔し涙を流しながら、「『プロの世界で活躍するにはまだ早い』と神様から告げられた気がしました」と振り返る。Honda鈴鹿に進み、「自分の最終的な目標は、プロで活躍すること。そこは絶対に曲げません。足りない部分を補うために社会人野球という、大学を1つ超えたステップでやらせていただいています」と言い切る。

 高校から社会人入りした選手がプロへ進むには、最短でも3年間を要する。Honda鈴鹿では、1年目の昨年は専ら体づくりに取り組み、今年から主力投手に。7月の都市対抗出場を目指し、当面は東海地区予選を勝ち抜かなければならない。「夏の都市対抗と秋の日本選手権は、社会人にとって重要な大会で、(プロへ)一番アピールできる場所でもある」と捉えている。

■10キロ近く増量し最高球速は152キロにアップ…ツーシームも習得

「ストレートの質を上げることと、初回から9回まで全力で投げられる体力と精神力をつけることが自分の課題」と明確に自覚し、練習に取り組んでいる。この1年で10キロ近く増量して体重93キロとなり、太ももも約7センチ太くなった。189センチの長身から投げ下ろすストレートの最高球速も、高校時代の148キロから152キロに、4キロアップした。「右打者をどう打ち取るかを考えた末、内野ゴロを打たせるために」ツーシームを習得。投球の幅も広げた。

「社会人でプレーする以上、(プロ入りする時は)絶対に即戦力で行かなければならない。1軍でシーズンを通して戦えるように、精神的にも身体的にもレベルの高いプレーヤーを目指しています」と意識が高い。

 もともと大阪桐蔭高入学当初は、「同学年に別所孝亮(慶大)、川井泰志(日体大)ら、中学球児を代表する投手がいて、不安しかないスタートでした」と明かす。1年後には前田も入学してきたが、それでも「絶対に大阪桐蔭でエースになって甲子園で優勝する。そしてプロに行くと、3年間変わらずに毎日毎日思い続けました。日々の本当に小さな積み重ねの結果、最後の夏に背番号『1』を付けることができたと思っています」とうなずく。

 明確な目標を立て、1日1日たゆまずに努力する姿勢は、今も変わらない。ドラフトで指名されず苦汁を飲まされたことも、「起こっていることには全て意味があると、僕は考えています。実際に、あの経験が今に生きている。自分を1段階強くしてくれた思い出です」ととらえている。高校からプロへという構想はかなわなかったが、“プランB”を堂々と踏破していく。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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