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年齢順に埋まる“バツ印”「みんな終わり」 中日黄金期の終焉も…団結高めた解雇通告

Full-Count / 2024年7月7日 7時10分

中日の指揮を執った落合博満監督【写真提供:産経新聞社】

■笘篠誠治氏は落合博満監督のもと、中日で4年間コーチを務めた

 選手、コーチとして西武に25年間所属した笘篠誠治氏は2008年からは中日で4年間、外野守備走塁コーチを務めた。落合博満監督が退任した2011年シーズン限りで笘篠氏も契約を解除。“落合政権”のコーチングスタッフが順番に呼び出され、次々と戦力外を告げられていった“戦慄”の舞台裏をFull-Countのインタビューで語った。

 中日のコーチに就任した2008年は落合監督の4年契約の最終年。笘篠氏も単年契約で中日に入り、シーズン終盤を迎えた頃だった。西武時代からの兄のように慕う、ソフトバンクのチーフコーチだった秋山幸二から連絡があった。

「中日との契約はどうなっているんだ? 実は王さんが勇退して、来年は俺が監督を引き受けたから、お前も福岡に来てくれ」。思いもよらぬ誘いを受けた。笘篠氏はすぐに遠征先の落合監督の部屋を訪れ、オファーがあったことを伝えた。すると指揮官からの返答も思いもよらないものだった。

「俺の4年契約は今年で切れるけど、実はあと3年結んだ。だから、お前もあと3年残ってくれ」。まさかの“3年契約”を打診された。「『え、いいんですか!?』という感じでしたよ。すぐに秋山さんに電話して事情を伝えました。『わかった。また(中日が)終わるときだな』と言ってもらいました。あと3年はユニホームを着られるぞ、という喜びでしたね」

 1年だけの予定が結局、4年間中日に所属した。ラストイヤーとなった2011年、落合監督の事実上の解任が明らかになると、「コーチ陣もみんなクビになることは予感していました」と笘篠氏。するとシーズン終盤、まだヤクルトと優勝を争っていた時期だったが、ナゴヤドーム(現バンテリンドーム)でコーチ陣が1人ずつ球団側から呼び出されたという。


中日でコーチを務めた笘篠誠治氏【写真:湯浅大】

■“ほぼ全員”が解雇通告…森ヘッドが「絶対に優勝して辞めてやろう」

 年齢順に森繁和ヘッドコーチから順番に呼び出されていった。監督室で待ち受ける落合監督はコーチ陣一覧が書かれた紙を机に置き、自分の名前の上に大きくバツ印をつけていた。戻ってきた森に「おう、シゲ(森)、どうだった?」「クビですよ」「わかった、クビな」。森の名前の上にバツ印をつけた。「×」は次から次へと増えていく……。

 笘篠氏も呼ばれ解雇を通達。部屋に戻って「監督、クビでした」。指揮官は「トマ、お前もか」とバツ印。全員の処遇が判明すると「みんな、これで終わりだな。でも、今年は優勝の可能性があるからな」とつぶやいた。森ヘッドコーチが「絶対に優勝して辞めてやろう」と力を込めた。コーチ陣が一致団結。一気に優勝へのモチベーションが高まった。

 すると落合監督は「もうクビになると分かっているんだから、(来年へ)動けるヤツは動いておけ。優勝したら遅くなるから、とにかく動いておけ」と呼びかけた。笘篠氏は以前にコーチとしてのオファーしてくれたソフトバンクの秋山監督に電話した。

「今年でクビになります」。笘篠氏からの報告に秋山監督も驚いた様子だった。「でも中日は優勝するかもしれないよね?」。「はい。でもクビになるので、ホークスに呼んでもらえないでしょうか」「契約切れるならすぐに球団に話すから、ぜひ来てくれ」。ソフトバンクの2軍外野守備走塁コーチへの就任が“内定”した。

 結局、2011年の中日はリーグ優勝を果たした。そして1軍コーチ陣で翌年も1軍に残ったのは近藤真市投手コーチとトレーニングコーチの2人だけだった。

「結局、落合さんに声をかけられて入った人はみんなクビとなりました。でも、落合さんが解任となった時点で、仮に残ってくれと言われても僕は辞めるつもりでした」。4度のリーグ優勝、Bクラスなし。8年続いた“落合中日”の終焉となった。(湯浅大 / Dai Yuasa)

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