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王貞治は「三振ばかり」も…練習で漂った片鱗、伝説スカウトが見た指揮官の「我慢」

Full-Count / 2024年7月13日 6時50分

中日でプレーした法元英明氏【写真:山口真司】

■法元英明氏は投手から4年目に外野手登録…初HRを巨人・別所から記録

 偉大な打者も、偉大な投手もやはりモノが違っていた。中日で“伝説のスカウト”と称され、7月25日の球団OB戦「DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME2024」で総監督を務める法元英明(ほうもと・ひであき)氏はプロ3年目の1958年、投手登録ながら野手の道を歩み始め、9月には「6番・右翼」で初スタメンも経験した。登録が外野手になった4年目には初本塁打もマーク。5年目は94試合、6年目は96試合出場とステップアップしていったが、その間に見た大物たちの姿も印象深いという。

 左腕投手として中日入りした法元氏は2年目の秋季練習から「外野の練習に取り組んだ」という。2年目は代打起用も多く15打数7安打の成績で野手転向となったが、3年目も登録は投手のままだった。「(鹿児島)湯之元キャンプでの紅白戦に外野で出て、石川克彦さんや杉下(茂)さんからホームランを打ったんだよ。ホームランバッターじゃないのにね。それでもう完全にバッターになったって感じだったかな」。

 石川克彦投手は1953年に18勝、1954年に21勝、1955年に17勝をマークした右腕。「フォークボールの神様」と呼ばれる杉下茂投手は1950年から6年連続20勝以上、1952年と1954年には32勝を挙げた中日の大エースだ。法元氏が紅白戦で一発を放った1958年は共に全盛期ほどではなかったにせよ、自信につながったのは言うまでもない。だが、プロはそんなに甘くもなかった。3年目は、なかなか結果を出せなかった。

 開幕から2軍調整が続き、野手転向後の初出場は代打出場した6月21日の広島戦(広島)だったが、前年の投手と代打の二刀流時代のようにうまくはいかなかった。シーズン初安打は8月2日の広島戦(広島)で、代打でマークした。その後、右翼にも就くようになり、9月2日の大阪(現阪神)戦(甲子園)で「6番・右翼」でプロ初スタメン出場したが、小山正明投手の前に3打数無安打1三振だった。

「それはあまり覚えてないけど、小山には全然アカンかったなぁ」。法元氏の3年目は34試合、42打数7安打の打率.167、2打点に終わったが、めげることはなかった。正式に外野手登録となった4年目、杉下監督兼投手体制で臨んだ1959年は代打中心ながら67試合に出場、101打数27安打の打率.267、2本塁打、9打点と数字を伸ばした。「杉下さんは僕のことを買ってくれた。よう使ってくれたんですよ」。

 プロ初本塁打は、「2番・右翼」でスタメン出場した8月26日の巨人戦(後楽園)で別所毅彦投手から放った。「覚えているよ。(巨人の)ライトのエンディ宮本(敏雄)は入ると思わなかったんじゃないかな。そんな追い方だったし、僕もライトフライかなって思ったけど、ギリギリで入った。振り切っていたからやろね。あれはうれしかったねぇ」。そんな法元氏が、この年の巨人戦で印象に残っているのが当時ルーキーだった巨人・王貞治内野手だ。

■入団当初の王貞治は「三振ばかり」も練習で「すごい打球を飛ばしていた」

「三振ばかりしとったよ。最初の頃はホント。(巨人監督の)水原(茂)さんがよう使ったと思うよ。でも振りは物凄く速かったなぁ。まだ1本足(打法)ではなかったけどね。いずれはそこそこ出てくる選手とは思ったよ。でも、それも使わなかったらああはならないよね。そう言えば、空振りが前にいかんかったな。体を残してゴルフスイングみたいな感じだった。練習もすごかったなぁ。すごい打球を飛ばしていたよ」

 法元氏にとっても水原監督は思い出の人だ。「(1969年に)僕がスカウトになったときの中日の監督。『おい、左でええのおらんか』って言われてドラフト4位で指名した松本幸行(投手)も使ってくれた。島谷(金二内野手)とか、大島(康徳外野手)も水原さんが最初の頃、我慢して使ったのがあとで生きた。ワンちゃん(王貞治)も、水原さんみたいに腹が太い人じゃないと使えなかったと思う。大監督じゃないとね」

 現役時代の法元氏は杉下監督にチャンスを与えられ、貴重な存在になっていった。5年目の1960年は94試合、監督が濃人渉氏に代わった6年目の1961年も96試合に出場した。「濃人さんにはよう怒られたけど、いいところで使ってくれたんですよ」。その年は9月5日の大洋戦(中日)で大洋のエース・秋山登投手から放ったホームランの感触が忘れられないという。「ベンチで財津(守外野手)に『今日はバットが軽い。ホームランが打てそうな気がする』って言ってスカーンと物凄い当たり。真芯。会心だったからねぇ」。

 1961年といえば中日・権藤博投手がデビューしたシーズンでもある。69登板で44先発、12完封を含む32完投、35勝19敗、防御率1.70、429回1/3を投げ、310奪三振。新人王、沢村賞、最多勝、最優秀防御率。連投の多さから「権藤、権藤、雨、権藤」と言われるなど、すさまじかった新人右腕のことは法元氏もよく知っている。

「昨日放っても、おととい放ってもすぐ権藤だったもんね。きれいな投げ方をしていたよ。あの投げ方ならつぶれないかなと思ったけど、いつも緩めることなく、一生懸命投げていたからねぇ。まぁ、あれだけ投げれば、そりゃあね、体を使うわけやからね」。結局、故障もあって投手として輝いた時期は短かったが、力投する姿が印象に残らないわけがない。王や権藤のルーキー時代を間近で見てきたことも法元氏の財産だ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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