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中日ドラ2指名に激怒「もう来ないで」 拒否→進学打ち出すも…大逆転呼んだ“密会”

Full-Count / 2024年7月21日 6時50分

中日でプレーした法元英明氏【写真:山口真司】

■1977年ドラフトで中日は小松辰雄を2位指名も…拒否→進学を打ち出した

 感激の入団OKだった。中日元外野手で伝説のスカウト・法元英明(ほうもと・ひであき)氏がドラフト指名後に急きょ担当となって動いたのが、石川・星稜高の小松辰雄投手(現・中日OB会長、野球評論家)だ。1977年ドラフト2位。ハンパない剛速球で甲子園を沸かせた右腕は「2位」に納得がいかず、入団拒否→駒沢大進学を打ち出していた。そんな状況で法元氏は“助っ人スカウト”に指名された。誠意と粘りの交渉で、逆転中日入りに導いた。

 1968年シーズン限りで現役引退してスカウトに転身した法元氏は年々、存在感を増していった。1975年の同志社大・田尾安志外野手、1976年の滋賀・堅田高・都裕次郎投手と、2年連続で担当選手がドラフト1位になった。1977年ドラフト1位は日本鉱業佐賀関の右腕・藤沢公也投手(入団は翌1978年ドラフト前)で法元氏の担当ではなく3年連続はならなかったものの、この年も“実質1位”の小松担当として結果を出した。

 当時の法元氏の担当エリアは関西地区中心で、北陸地区の小松に最初から張り付いていたわけではない。甲子園で活躍したスター選手だから、その力量はもちろん、よくわかっていたが、そんな右腕に関しても“出番”となったのはドラフト会議後だった。2位指名に憤慨した小松はそれまでの中日の担当スカウトからの電話に「大学に行って、1位に指名される選手になるので、もう来ないでください」と入団拒否の姿勢を示すなど交渉は超難航していた。

 そんな中で法元氏は“小松担当”を命じられた。「『お前が電話してくれ、お前が行け』って言われた」という。辣腕スカウトとして球団からも評価されていたからこその指令だろうが、なかなかハードな状況ではあった。駒沢大野球部の太田誠監督との“闘い”にもなった。「特に太田さんと駆け引きをしたわけではないけど、僕が金沢に行ったら太田さんはいない。僕が帰ったら太田さんが金沢に来たって話は何回も聞いたね」。

 法元氏は星稜・山下智茂監督に挨拶し、2位指名のいきさつも説明した。当時のドラフト会議は12球団が抽選で指名順を決める方式で、1位選手は1番クジの球団から順番に指名していく。2位は逆に12番クジ球団から指名し、その流れで3位は1番クジから、4位は12番クジからという具合。1977年ドラフトで中日は12番クジを引き、全体12番目の1位で藤沢、小松は全体13番目となる2位で指名したが、実質1位の評価だった。

 加えて藤沢は過去4度もドラフトで指名されながら入団を拒否していた投手。「山下さんは事情を分かってくれた。藤沢だったからそうなったって思ってくれたと思うよ。『小松とも話をしてください』と言ってくれたのでね」。法元氏は小松も話せばわかってくれるはずと考えていたという。もともと小松の意中球団は「巨人か中日」。絶対無理なところからスタートしているわけでもない。誠心誠意でぶつかっていった。

■マスコミの目を盗んで車で富山県へ…料亭で2人きりの会談

 しかし、ネックがひとつ。「なかなか2人だけでじっくり話ができなかったんだよ。何でかというと、マスコミが必ず僕についてくるから。いつ小松に会いに行くのかも、どこに泊るのかも全部調べられていた。せっかく金沢に行ったのに、小松とまともな話ができなくて帰ってきたこともあった。あの時は何しに行ったんだろうと思ったなぁ……」。とにかく小松と2人きりになりたい。そのためにはどうすればいいか。そればかり考えていたそうだ。

 そして、ついに実現した。「マスコミにわからないように個人の車を借りた。電電北陸の誰かだったかなぁ。ローレルだったのは覚えている。雨が降っている日。こっそり小松を乗せて(富山県の)新湊まで行ったんだよ」。高速道路を使ってのロングドライブ。そこまで行けば、さすがのマスコミも追いつかないだろうと考えた。「金沢で会って、また見つかったらかなわんからね」。目的地は新湊の料亭『浜作』だった。「そこは前から知っていたのでね」。

 個室で話をしたという。「お互い本音でね。『心の底から君のことを考えて俺はしゃべる。君も思ったことは何でも聞いて。できることはみんなするから』と僕は言った。小松も本心をさらけ出してくれたよ。『だいぶ前から法元さんにゲタを預けようと思っていました』と言ってくれた。その言葉を聞いた時、頭からスーッと下に血が下りていくのがわかった。喜びでゾーッとした。口には出さなかったけど、“うれしい!”って思ったね。まぁ純粋だったかな、僕もまだ……」。

 中日入団後の小松は剛速球にさらなる磨きをかけ、スピードガンの申し子と言われた。先発、抑えにフル回転。最多勝2回(1985、1987年)、最優秀防御率1回(1985年)、沢村賞(1985年)にも輝くなど長きにわたってドラゴンズの主戦投手として君臨した。1984年からは中日のエースナンバー「20」も星野仙一氏から受け継いだ。現在は中日OB会長も務めている。

「思い出すなぁ“新湊会談”。結果的に小松とはずっと太いパイプで結ばれているよね」と法元氏は笑みを浮かべた。「しゃあないとか諦めとか、そういうことがなかなかできない時代だった。与えられた仕事は完遂しないといけないし……」。現在はプロ志望届があったり、時代は変わり、スカウトの動き方も変わってきた。伝説のスカウトは小松獲得に全力を注いだ頃を思い出しながら「僕らの時の方がいろいろドラマもあったんじゃないかな」と話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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