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阪神躍進の裏で…崩壊した肘「もうやばかった」 投げられないのに昇格、悪化し続けた痛み

Full-Count / 2024年8月6日 6時50分

阪神で活躍した田村勤氏【写真:山口真司】

■田村勤氏は2年目の1992年に守護神として活躍も…左肘に異変が生じた

 どうすることもできなかった。元阪神の横手投げ左腕・田村勤氏はプロ2年目の1992年、開幕からクローザーを任された。ストレートの球速も140キロ台後半までにアップ。小気味いいピッチングで相手打線を牛耳り、セーブを積み重ねた。1987年から前年の1991年まで6位、6位、5位、6位、6位と低迷続きだったチームも優勝争い参戦の大躍進。だが、田村氏はそのシーズンを最後まで全うできなかった。左肘が悲鳴を上げた……。

 1992年、プロ2年目で虎の守護神となった田村氏は黙々と仕事をこなしていった。開幕2戦目だった4月5日のヤクルト戦(神宮)で3-3の9回裏からシーズン初登板。ゼロに封じて延長戦に突入した。10回表に阪神打線が3点を奪い、2イニング目のその裏をピシャリと抑えて勝利投手となった。2登板目の4月8日の巨人戦(東京ドーム)は5-4の8回裏から2イニングを投げて4三振を奪うなど無失点でセーブをマーク。波に乗った。

 この年の阪神は「たむじい」こと田村氏の活躍とともに、若虎の亀山努外野手と新庄剛志外野手の“亀新フィーバー”も巻き起こり、大きな話題となった。「新庄とは一緒にご飯を食べに行ったりしましたね。彼はよく、僕のピッチングフォームを真似するんですよ。ファンが見ている前でもね。僕のことを『たむじい』っていうから『“さん”はつけろよ』といったら『たむじいさん』と呼ばれるようにもなりましたけどね」。チームのムードもよかったようだ。

 田村氏は首脳陣の期待に見事に応えて、4月は1勝5セーブ、5月は2勝6セーブとクローザーとして安定感も抜群だった。延長10回日没コールドで3-3の引き分けに終わった6月6日の大洋戦(札幌円山)で止まるまでは開幕から15試合連続セーブポイントだった。「あの試合は全部、進藤(達哉内野手)にやられたんですよねぇ。バックスクリーンに持っていかれた」。

 その日の田村氏は3-2の8回1死から登板して、連続三振でその回を封じたが、9回裏、先頭の進藤に同点アーチを浴びてしまった。それは5月31日の巨人戦(東京ドーム)からの連続奪三振が「打者8人」で止まるものでもあった。田村氏は延長10回もゼロに抑えたものの、ナイター設備がなかったために日没引き分け。「僕としてはせめて勝ち投手になって終わりたかったんですけどね」。もっとも、この頃から左肘に不安は感じていたそうだ。

 ルーキーイヤーの前年(1991年)中盤から違和感があった左肘。絶好調の2年目は当初、それも忘れるくらいに充実していたようだが、時間の経過とともにだんだん痛みが出てきたという。痛み止めを服用して投げ続けたが、6月下旬には「もうやばかったです。もう長くないだろうなって思っていました」というほど悪化していた。6月28日の中日戦(甲子園)では7-5の9回表に登板し、リードを守れず降板。開幕から23登板目で初黒星を喫した。

■2年目のラスト登板は7月3日、8月に再登録もマウンドに上がれず…チームもV逸

 7月3日の広島戦(金沢)は3-2の8回裏に登板したが、マーティ・ブラウン外野手に同点アーチを被弾。9回裏はゼロに抑えたが、田村氏はそこで交代した。「右方向にホームランを打たれましたからね。もう無理だわ、投げれんわって思いました」。これが、2年目シーズンのラスト登板だった。「ブルペンでも全力で投げられなくなりましたからね。誰が見ても、これは駄目だとわかったと思います」。肘が限界。無念の戦線離脱だった。

 優勝を争っていた阪神にとって、頼れるストッパーのリタイアは痛かった。首脳陣にしてみれば、できればシーズン中に戻ってきてほしいとの思いでいっぱいだったに違いない。肘が治ったわけでもないのに田村氏は8月13日に1軍登録された。「『とにかく出て来い』って言われました。1軍に行けば気持ちで投げたくなるんじゃないかとか、そういう変な期待はあったんじゃないでしょうか」。

 しかし、無理なものは無理だった。「期待に応えたい気持ちはありましたけど、球場に行けば治るなんて、そんな神がかり的なことって起きるわけがないじゃないですか。最後は『無理やな』って言われました」。1度も投げることなく8月20日に登録抹消。そのままシーズンを終えた。阪神は巨人と同率2位。優勝したのは野村克也監督率いるヤクルトだった。

「最後はテレビで見ていました。みんなに迷惑をかけて申し訳ないと思いました。優勝したら球場に呼んでやると言われていたので、行きたいなって思っていましたけどねぇ」。この年の阪神V逸要因としては田村氏の離脱が取り沙汰された。「よく言われました。周りからずっと言われています。“あの時、田村がいたら”ってね。まぁ、それもまた人生っていうんですかねぇ…」。

 とはいえ、まだプロ2年目で、チームに欠かせない男にまでなっていたのだから、それだけでも勲章だろう。「まぁ、僕は“たむじい”ですからね。阪神にも、なじんでいたんじゃないですか。昔からいるような顔をして投げていたとちゃいますかねぇ」。1992年の“虎のクローザー・田村”は24登板、5勝1敗14セーブ、防御率1.10の前半戦だけの活躍で、ものすごいインパクトを残した。それは伝説となっている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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