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松井秀喜は阪神戦が「怖かったと思う」 仕事人が投球練習で打った“布石”「何回かやった」

Full-Count / 2024年8月8日 6時50分

巨人時代の松井秀喜氏と対戦する田村勤氏【写真提供:産経新聞社】

■田村勤氏は怪我を経ながら6年目に40登板で防御率1.16、7年目は50登板

 元阪神守護神の田村勤氏は現役時代、左肘痛、左肩痛と怪我に何度も泣かされた。そのたびに不死鳥のごとくよみがえったが、同時に投球術などにもいろんな工夫を重ねた。相手に癖がバレていれば、それを逆手に利用した。変化球を投げるふりをしてストレートを投げ込んだ。巨人の主砲・松井秀喜外野手に対しては、封じるために敢えてとてつもない“威嚇球”を使ったという。

 田村氏はプロ1年目の1991年、左肘に違和感を覚えた。抑えを任された2年目にはそれが痛みに変わって、シーズン前半で離脱となった。肘を治して3年目の6月下旬に復帰して、再びクローザーとして活躍したがその年の終盤、今度は肩に違和感が生じた。4年目の5月にはそれも痛みに変わって、リタイアした。5年目は1軍登板なし。だが、それでも懸命に調整した。6年目はショートリリーフで復活を果たした。

「抑える術をまたつかんだというか、また抑える自信がついたというか……」と田村氏は話す。ワンポイントで起用されたりのショートリリーフは楽ではなかったそうだ。「バッター1人を全力で抑えるだけですけど、ブルペンで肩を作る場面は異常に増えました。(左腕のため)左バッターに合わせてずっと作っておかないといけないですから。しんどいですよ。自分で球数を減らしたりとかそういうこともしないといけなかったですしね」。

 6年目の1996年は5月下旬に1軍復帰し、40登板で1勝0敗、防御率1.16の成績を残した。吉田義男監督体制になった7年目の1997年は50登板、0勝2敗9セーブ、防御率2.86。与えられた仕事をきっちりこなしてチームに貢献した。左肘も、左肩もいつパンクするかわからない。常に爆弾を抱えながらの投球でもあったが、後ろ向きにはならなかった。「肘も肩も楽をさせたいけど、楽したらお金が稼げない。行くしかなかったんですよ」。


元阪神・田村勤氏【写真:山口真司】

■松井秀喜との対戦…直前の投球練習で演じた制球難

 だから、やれることは何でもやった。「治療もいろんなところに行った。それも思い出ですよ。家の中で備長炭に囲まれてみたりもした。いい磁場を出すってことでね」。自分の癖も把握した。「当時の僕はストレートとスライダーだけ。2つにひとつですから、癖までバレたら1、2の3で打たれますよ。だから相手が癖を見ているとわかったら、自分の癖を変えたりしました。変化球を投げるふりしてストレートとかもね」。

 左腕の田村氏にとって、ゴジラ松井封じも大事な仕事のひとつだった。松井との対戦直前の投球練習では、荒れ球の雰囲気を出すために、わざとバックネットを目がけて投げたりもしたという。「何回かやりましたよ。(球が)抜けているなぁって思わせるためにね。投球練習中だから害がないでしょ。バッターは抜けてくると思ったら怖いと思いますよ。嫌だと思いますよ。だからやったんです」。

 1度だけ松井に“危ない球”を投げたことがあったという。「それは意図的ではないですよ。たまたまなんですけど、松井は狙ってきたと思ったみたいです。審判にそんなことを言っていたらしいですからね」。復活の6年目と7年目の田村氏は、頭もフル回転。それこそ持てる力すべてを結集しての投球だったが、またもや続かなかった。再び左肩痛に襲われ、8年目(1998年)は1軍どころか2軍でも登板できなかった。

 故障から復活しても、無理してまた故障するというパターン。「結局、そういう感じなんですよね。僕はそういうのに耐えられない体だったのでしょうね」。田村氏は9年目の1999年にまた復活するのだが、その後もまた同じように……。「もう何か、痛くないところがないくらい、ずっといろいろありましたよねぇ。なんでこんなにうまくいかないのだろうと思いましたよ」。どれだけ必死に取り組んでも周期的にやってきた怪我との闘い。それはあまりにも残酷だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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