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阪神“暗黒時代”は「つらくはなかった」 5度の最下位も…忘れられない“追い風”

Full-Count / 2024年8月11日 6時50分

元阪神・田村勤氏【写真:山口真司】

■田村勤氏は引退後、恩師の勧めで施術の道へ…一昨年まで整骨院を経営

 阪神、オリックスで計12年間プレーした左腕・田村勤氏は2002年の現役引退後、怪我の施術の道へ進んだ。恩師の駒沢大・太田誠監督に勧められての転身だった。2005年には兵庫県西宮市に「田村整骨院」を開業。2022年に閉院するまで、野球に励む人はもちろん、子どもからお年寄りまで多くの人に接した。現在は高齢の母が住む静岡県中心の生活で、藤枝明誠高の投手コーチを務めるなど野球とも関わり続けている。新たな挑戦なども考えているという。

 オリックスで現役生活を終えた後、田村氏は太田監督のもとへ挨拶に訪れた。「『お前、これからどうするんや』と聞かれて『まだ考えてないです』と答えたら『怪我で苦労したんだから、体の悪い人の気持ちはわかるやろ、そっちの方面に行ったらどうや』って。監督に言われたら『はい』と答えるしかないんですけど、確かに気持ちはわかるなと思いました」。それで次の進路は決まった。資格を取るために勉強もスタートさせた。学校にも通った。

 2005年、西宮市に「田村整骨院」を開業し、多くの患者と向き合った。野球指導も行った。自身がプロで左肘痛、左肩痛などに苦しんだことを踏まえて、怪我を防げるように、繰り返させないように……。最大限のバックアップをしてきた。関わった野球選手は数え切れないほどに膨らんだ。「もう(2022年に)閉院しましたけども、いろんな選手とも知り合えました。トレーニングとかもやって独立リーグからプロに行ったりとか、そういう選手もいたんですよ」。

 阪神・近本光司外野手も関西学院大時代に、治療で通っていたそうだ。「阪神で活躍する姿を見て“あっ”って思いました。まぁ、僕が治療家として彼から評価されていたかも知りませんし、今は遠くから見守っているだけなんですけどね。何て言うかなぁ。野球へのひたむきな姿勢というんですかねぇ。その時もそういうのはとても感じましたねぇ」。多くの人物との出会いもまた田村氏にとって、すべて財産となっている。

 田村氏と野球を結びつけたのは、熱狂的な巨人ファンだった父・甲子夫さんだったが「亡くなって6年になります」と話す。「親父は僕が(1990年ドラフト4位で)阪神に入る時は複雑そうな顔をしていましたけど、そのうち阪神ファンになりましたからね。僕が巨人を抑えると喜んでくれましたよ。僕のジャンパーを着て仕事もしていましたし……。引退する時はお疲れさんくらいでしたけどね。まぁ、おっかないお父さんでしたから」。

■現在は静岡・藤枝明誠高で投手コーチ…後進の指導に尽力

 子どもの頃、父に「夢は何だ」と聞かれ「プロ野球」と答えた。その時に言われた「無理だと思うまでやれ!」は、駒大時代に伸び悩んだ時も、プロで何度も怪我をした時も、どんな時も田村氏にはいつも響いていた。野球人生を支えるものだったといっていい。治療する側になって、体がもっと万全なら、体についてもっと知識があれば、もっと無理できたかもしれないとの思いも生まれたようだが、精一杯やり抜いたことに変わりはない。

 整骨院を閉院したことについて、「お袋が静岡で、ひとりで暮らしていて、あまり膝とかもよくないんで、やっぱりちょっとそばにいたいな、というのがあったんでね」と言う。生活拠点を静岡に移すために決意したわけだ。今後は新しいことにも挑戦したい考えでもいる。「地元はお茶の産業で知られるところなので、そういう関係のこともね。何かひとつでも貢献できることがあればと思っています」と明かした。

 社会人野球・本田技研時代につけられたニックネーム「たむじい」は、静岡のお茶で同僚をもてなしていたところ、「若いのに、じじくさい」と言われたのがきっかけだった。出身地・静岡への思い、お茶への思いは当時から人一倍あったようで「(西宮市の)治療院でも静岡のお茶の販売をしていたんですよ」。治療業務に関しては「訪問とかは軽くやっていますが、活動していないに等しいです」と話すにとどめたが、この先、いろんな展開が考えられそうだ。

 野球ともはずっと関わっていくつもりだ。現在は静岡・藤枝明誠高で投手コーチを務めている。「月に2、3回は確実に行っています。無理って言われるまで行きますよ」と力が入っている。メインはピッチング指導でも、選手の治療も状況に応じてできるのは大きな強みだろう。さらに田村氏はこう話した。

■やらされる練習にあった意味「自分のものになった」

「生徒には『やらされる練習って言われた時は嫌だけど、言われたことでも続けていたら、自分のものになる時があるよ』って言っています。僕は(本田技研監督の)田代(克業)さんに半強制的にサイドスローになれ、ずっとひとりで走れ、と言われたことを、最初は嫌々でもやり続けていたら自分のものになったわけですから。『そういうこともあるよ』ってね」。経験者だからこそ、言えるセリフでもある。

 1991年から2000年まで在籍した阪神で、Aクラスは1992年の2位だけ。あとは4位2度、5位1度、最下位5度だった。田村氏は暗黒時代を経験した1人だが「つらくはなかったですよ」と言い切る。「だってあの頃、今の阪神みたいな(強力な)投手陣だったら、僕は投げさせてもらえただろうかとか思っちゃいますから。やっぱり、その時に自分がどれだけ輝けたかどうかということ。ずっと弱かったけど、それなりにプロとして使ってもらえたのはありがたい話ですよ」。

 どんなに弱くても応援してくれたことも忘れられない。「ある意味、あの応援であぐらをかいてしまうといけないなというくらい熱狂的なファンが多いですからね。それを追い風にして投げられたのは大きな力でした。名前がコールされた時の地響きのような大歓声を経験できたのは貴重だったと思っています」と感謝している。

 左横手から投じられたホップするようなストレート。狙って築いた三振の山。怪我に泣かされ、輝いた期間は短くても、その凄さは語り継がれている。田村氏の野球人生はまだまだ続く。地元・静岡への恩返しの貢献を考えつつ、多くの苦難を乗り越えた経験と多くの人と接してきた治療者として経験などを、それもまた無理と思うまで、次の世代につなげていくはずだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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