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極度の不振に右肩痛…「辞めたい」 元阪神4番の運命変えた“出会い”「今でも忘れられない」

Full-Count / 2024年8月30日 6時50分

元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】

■濱中治氏は軟式の中学で打撃不振…和歌山・南部高の練習に参加した

 元阪神の大砲・濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は和歌山・田辺市立明洋中学の軟式野球部時代、打撃不振にあえいだ。「中学3年間の打率は2割あるかないかだったと思います」。あまりにも打てなくて、小3から毎日個人練習に付き合ってくれた父・憲治さんにも「野球をやめたい」と相談したほどだった。ところが、それが一転。和歌山・南部高の練習に参加して、劇的な変化が起きたという。

 濱中氏の野球人生は、田辺市立芳養(はや)小学校軟式野球部「はやクラブ」監督でもあった父・憲治さんの影響で始まった。「父は高校球児だったんですが、身長が164センチくらいで低かったため、社会人野球とかは断念したらしいです。それで僕にはもっと上の方でやらせたいというのがあったと思う。プロ野球は夢の夢だけど、大学くらいまではやれるようにとね。身長にこだわってカルシウムのサプリメントとかは毎日、飲まされていました」。

 小3から「はやクラブ」に入り、帰宅してからも練習小屋でティー打撃など打撃練習を中心に汗を流した。毎日、憲治さんが付き合ってくれた。「ありがたかったですね」と濱中氏は振り返る。憧れのプロ野球選手は巨人・原辰徳内野手。「ホームランを打った後にバットを投げるシーンとかかっこよかった」。小6の時はエースで4番。打つ方に関しては「原さんのようなホームランを打ちたい」を目標にしていた。

 だが、明洋中の軟式野球部では大きくつまずいた。小学校時代は打ちまくっていたのに、中学では結果を残せなかった。「中学3年間(1991年~1993年)はあまりに打てなさすぎた。右肩も痛いし、中3の時には父に中学で野球を辞めたいと言ったんです。それくらい悩んでいました」。そんな中、南部高校の野球部練習に参加することになった。「父が南部の監督(井戸大志氏)と知り合いで、僕のことを相談したら、『じゃあ1回練習に来い!』と言われたんです」。

■初の硬式球で衝撃体験…快音残した一打「今でも忘れられない」

 状況は大きく変化した。「南部の練習に行くと『ちょっと硬球を打ってみろ』って。僕はその時に初めて硬球を打ったんですけど、今でも、打った時の感覚を忘れられない。もう衝撃的すぎて……。打球ってこんなに飛ぶんやって。ウワッ、こんな世界ってあるんやなと思った。また野球をやりたいという気持ちにもなりました。(井戸)監督に『無茶苦茶飛ぶやろ、軟式は飛ばないけど硬式はお前の力さえあればこれくらい飛ぶんや』と言われたのを覚えていますね」。

 その一撃には高校生たちも驚いていた。「今思うと僕のスイングスピードが速くなっていたので軟式ではぐしゃっとなって前に飛ばなかったのでは。それが硬式では変わるのを南部の監督はわかっていたのではないか」と濱中氏は言う。そして、それを父と毎日続けた練習小屋での成果とも分析した。「ソフトボールを打っていたんですが、それがよかったと思う。リストが強くなったし、重いボールをいかに強くはじき返せるかというのをずっと父から教わっていたんでね」。

 初の硬球打ちでの衝撃体験によって、高校は南部に行くことに決めた。「南部の監督に『ウチに来い!』って言われていました。僕は中学の時にはなんの記録も残していない。チームの優勝はありましたけど、自分は活躍していなかった。4番を打つのも恥ずかしいくらいだったし、中学ではホームランも数えるほど。南部以外の高校からの誘いもなかったですし……。それに南部はその年(1993年)の春の選抜に出ていて、智弁和歌山を倒せるのはここかなとも思ったのでね」。

 中学で野球を辞めかけたところからの“大逆転”での南部高への進学。「僕は野球教室に行った時、ソフトボールがあったら、それを打たせるようにしています」。自身のスイングスピードを上げた要因のひとつと考えるソフトボール打ちを、現在、濱中氏は子どもたちにも推奨しているそうだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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